ナサホームの20年(12)

第3部

1. 組織づくりと仕組みづくり

創業10年を超えてからの3年間はそれまでの10年間と明らかに違っています。売上の10億円越えも達成しましたし新卒採用も始めました。社員数も急激に増え、ある意味全く違う会社になってきたといえます。一言で言えば「組織づくりの3年」と言えると思います。
ただ良かった点として人が増えいろいろな問題が起こってからその対処としていろいろ手を打ったのではなく意識せずに自然と事前準備が出来てきたことでしょう。そのため多くの異業種も含めた他社が『10億円の壁』といって10億円付近で足踏みすることが多い中で全くその壁を意識することなくブレークスルーできました。

2. 理念実践型経営の真髄

自然と組織づくりの事前準備が出来た理由に、あるCDとの出会いがあったことは大きいと思います。
SMBCコンサルティングから毎月送られてくる日経ベンチャー経営者クラブのCDでブリングアップ社長の国吉拡氏の「理念実践型経営の真髄」と言う講演が収められていました。このCDを聞き深くこの考え方に傾倒して行き、それがその後、大きくなっていく組織を束ねていける結果につながったと言えます。
そのCD自体は毎日の通勤の車の中で50回以上は聞いたでしょう。また国吉拡氏の講演も数回聴きに行きました。
内容はお金や物、待遇でスタッフを束ねるのではなく考え方、理念で人を束ねると言うものです。すなわち考え方や価値観を共有し全社員が基本的に同じ方向で考え行動することが必要であると言う考え方です。当時まだ組織運営で困っていたと言う状態ではなかったのですが、この先必ずそれが問題になることは判っていましたので本当に参考になりました。
もちろん自分ひとりで考えるだけではなく弊社の理念である「ナサホームに関わった全ての人を幸せにする」という考えを社員に定着させなければなりません。これに特別な何かを実施したわけではありませんが会議の場や事ある毎に価値観を共有できるように話したつもりです。これも時間は掛かりましたしまだその道半ばでありますが徐々に徐々に浸透してきていると思います。この考え方への気づきが無ければ今の弊社は無かったと思えるほど重要なことでした。

3.淘汰の時代

平成18年の終わり頃からそれまで弊社より先行していた同業者の倒産や大幅な規模縮小が相次ぎました。
先ず神戸の(仮称)ループ。早い段階からチラシ反響型営業で業績を伸ばし(仮称)大滝社長自身も(仮称)オールサポートというコンサルティング会社を立ち上げ中小リフォーム業者を元気にしたいと多くの講演をこなしておられました。私自身も何回か出席して多くの出会いや勉強の場を提供していただきました。しかし他業者を元気にさせるどころかその足元で自社が崩壊してしまいました。これと同時期に大阪の(仮称)システムコンストラクションも事実上の廃業となり、また同じ大阪の(仮称)ダイキョウホームも店舗の閉鎖、規模縮小に追い込まれました。
去年はなんと言っても横浜の(仮称)リモアの倒産が衝撃的でした。リモアの(仮称)西崎さんとは船井総研の坂本氏を通じて知り合い7~8年前からの友人で弊社より先行していたのでよく仕事を教えていただいていました。しかし西崎さんも途中からリフォーム業よりオーダーメイドキッチンのメーカーとしての運営に注力されていました。
これらの企業の倒産や規模縮小の原因には共通する部分があって経営者自身がリフォーム業より別の業態に力を入れだしたことが上げられます。
大滝さんも西崎さんも業界では目立った存在で同業者からある意味あこがれられ目標とされる存在でした。またお二人ともお話が上手で多くのセミナーを主宰されていました。このことも地味な本業が疎かになった理由のひとつであると思います。
何れにせよ友人である西崎さんがこの業界から退場されたことは寂しい限りです。

ナサホームの20年(11)

14.  ここから順調に

 このころから経営状態は順調に推移していきました。「なさ犬くん」の効果が徐々に出て完工粗利が落ちてしまう幅がだいぶ小さくなってきてお金も少しずつ残るようになりました。また、その頃入社してきた安部君の効果も大きかったと思います。それまでは私自身もそうですし、他の社員も建設業の経験はあってもリフォームの経験者はいませんでした。彼の入社の影響でリフォーム会社独特の工事のやり方を取り入れ、それに慣れた職人の採用が出来たことで粗利の下落を小さく抑えることが出来たのは確かです。
そして、茨木店の出店を決めました。当時、私の出店の基準のひとつには、「以前勤めていた日住サービスの業績のいい店舗の近く」というのがあります。不動産の売買仲介の好調な地域は富裕層が多く仕事がやり易いだろうということです。茨木には狭い町に日住サービスが2店舗も出店しておりどちらの店も成績好調でした。私は茨木に土地勘はありませんでしたが迷わず決めました。
店舗探しのお話ですが後に出店した高槻店もそうですがすぐに店舗を見つけてしまいます。茨木も高槻も探し始めて一日で見つけてしまいました。この部分は元不動産屋の効用でしょうか。いずれもいい立地だと思います。
初めての来店型店舗としてオープンした茨木店は当時としては大成功でした。土日には大型工事のお客さんがふらっと来店されます。同じ時間に3組くらい来店されることも時々あります。また、見積提出や仕様決めもこちらから出向くのではなくご来店いただくことが多くなり営業マンの負担も減りました。

15. おいしくないラーメン屋の話

 私の頭の中にはもちろん経営の安定、資金繰り等々、経営者としての考え、心配がありますが、その根底に意は顧客満足、即ちお客様に喜んでもらってその対価を得るというのが基本中の基本としてありました。まだ社員も20人くらいでしたのでその考え方はスタッフに共有されているものと何の疑問も持ちませんでした。
ただ、あるとき当時都島店の店長だった(仮称)宇部とその部下の渡辺があらたまって私のところに相談があると言ってきました。内容は次のようなものでした。
変なお客さんがいる。工事が終わったと同時に入金は全額されているが、後から再三手直しを言ってくる。都度、手直しを入れ部屋はとてもきれいです。それにもかかわらずいろいろなところに因縁をつけて金を返せと強硬に言ってくる。自分ではどうにもならないと言うと社長を呼べと言っている。
そして私が行くことになりました。事前に電話でお客さんと話した内容ではクロスの仕上がりがご不満のようでしたのでクロス屋の親方と一緒に行きました。部屋に入った瞬間は明るくてすごく綺麗でした。しかし細かいところを見ると唖然としました。リビングドアの塗装をしているのですが私は心の中で「小学生の工作以下」と恥ずかしくなりました。お客はかなり感情的になっておられ、「このドア見てみろ、小学生の工作以下やで、ありえへん」とおっしゃいました。私の思ったのと全く同じ感想。恥ずかしい。そのほかもいろいろ稚拙な内容の不備があり、すぐ全てやり直すことを申し出しました。ただ、お客様は、「何度も手直ししてもう疲れました。お宅のところの職人さんにはもう入ってほしくない。よその業者でやり直すのでお金を返してほしい。」とのことです。
それまで私はスタッフに「クレームが出ても減額には応じるな。たとえ損が出てもご納得いただくまでやり直せ」と指示していましたが、工事に入ってほしくないとまで言われるとどうしようもありません。最終的に30万の返金でお詫びをして解決としました。ほんとうに辛い決断でしたが・・・。
翌日、宇部に報告をしました。その時彼の言った言葉に唖然としました。「もちろん社長が判断されたことですから、僕がどうこう言うことでもありませんが、もしラーメン屋に入って、おいしくないからと言ってお金を払わなければそれは無銭飲食で捕まりますよ。」
ナサホームの工事がおいしくないラーメン屋であっていいはずもなく、店長の立場の者があの仕上がりで現場は綺麗に完成していますと私に報告してくる。私の知らない間に、有ってはならない感覚がスタッフの中に芽生えていたのでした。そこから会社として工事品質重視にかじ舵を切っていくきっかけとなりました。

ナサホームの20年(10)

 11.    デザインファクトリー

 あるとき船井総研の坂本氏から横浜のリフォーム会社へ店舗視察のお誘いがありました。行ってみると他に7社ほどの経営者が来ています。詳しくは書きませんがこの集まりはデザインファクトリーの立ち上げ説明会の意味があったのです。デザインファクトリーとは(仮称)リモアの(仮称)西崎さんが主宰しデザインキッチンのメーカーとして会員企業に販売するボランタリーチェーンのようなものです。
これ以降、年に数回デザインファクトリー情報交換会ということで全国のリフォーム会社の経営者が集まる機会が出来たわけですが、この集まりはすばらしい。デザインファクトリーの初期メンバー9社の中でうちが一番小さな規模でしたから先行する経営者の成功談、失敗談が非常に参考になりました。また失敗談でも全てそれにどう対処してどうなったかといった答えも皆さん持っておられます。本当に同じ業種で会社を経営していると、それぞれの成長の過程で全く同じ問題がほぼ順番どおりに起こってきます。地域差もありますが見事なほどほぼ同じです。この集まりで相談し学べたことは何にも替えがたい財産になりました。
ただデザインファクトリーの加盟金30万円が当時の弊社にはかなり負担でした。
僅か30万でしたが・・・。

12. 東原社長と伴さんとの出会い

 資金ショートこそしないものの相変わらず粗利のダウンは続きました。いつまでもこのままでは会社が持たないと思案していたとき、船井総研の坂本氏より面白いソフトがあるので金沢のハウジングスタッフへ行かないかとの誘いがありました。「面白いソフトがあっても買う金ない…」と思いつつちょっと気分を変えようか位の気持ちで金沢へ行きました。ハウジングスタッフの東原社長は初めに船井総研のセミナーへ言ったときの講演をしていた人なので話してみたい気持ちもありました。
先ずハウジングスタッフの本社で横浜から同じように来られているリモアの西崎社長(当時)と一緒にソフト開発の伴さんからこのソフトの説明を受けました。確かに良さそうなソフトでしたがこの時点ではまだいくら良さそうでも先立つものの心配が一番でした。そう、常に頭の中には「月末の支払いどうしょう」があったのです。
そしてその日の夜、東原社長、西崎社長、坂本氏と4人でお寿司を食べに行きました。このときこの席での東原社長のお話がナサホームの運命を変えました。東原社長の建設業運営の基本的な考え方、職人や問屋との関係を中心にここで文章では書き表せないくらい中身の濃いお話でした。昼間にソフトの説明だけでは判らなかったのですが、東原社長の経営哲学があのソフトに凝縮されていたのです。
あの日、一夜にして自分が変われたのが判りました。私ももう当時40才を超えていましたがそんな歳になってもあんなに衝撃的なことがあるのです。
余談ですがあの日に食べたお寿司は今まで食べたことの無い位おいしいお寿司でした。2003年の夏のことです。

13. なさ犬くん導入

 ハウジングスタッフのソフトを導入し「なさ犬くん」と名付けました。その後も幾度となくバージョンアップしていき当時ナサホームの業務の中心に在ったソフトです。あの夜、東原さんから受継がれた経営哲学を自分なりにアレンジしてナサホームに落とし込んだものが「なさ犬くん」です。もちろんいくらいいソフトを導入してもその運用がうまくいかなければ意味を成しません。この「なさ犬くん」も導入当初はすぐにうまく稼動したわけではありません。発注書を事前に切るように取り決めしてもこの発注書制度を完全に無視している社員が多かったように思います。ただ、柳、林あたりは比較的すぐこの制度をうまく利用し始めたと思います。特に柳は見かけによらず制度の変更や新しい制度に柔軟に対応していました。結果として「なさ犬くん」をうまく利用した人の営業成績や給料が飛躍的に上がり、このシステムや決め事を無視した人は以前より成績も下がり収入が減る結果になりました。

ナサホームの20年(9)

 8.    いよいよ本格始動

   2001年の暮れは船井総研との打合せでアプローチブックや原価表を作る資料の提出等で忙しくしていました。
2002年の正月、いよいよコンサルを入れての本格始動のスタートです。チラシも作りました。以前自分で作ったチラシに比べて格段にいいチラシが出来ました。船井総研のリフォーム業者への支援の前提は高反響のチラシにあります。これが当たらないとあとのいろいろなノウハウが全て絵に書いた餅になってしまいます。
正月一発目のチラシが入ったとき驚きました。同じようなチラシで今まで入ったことのない業者のチラシが同じ日に何枚も入っています。全て船井流のチラシです。船井総研は同一地域で何社ものリフォーム業者と契約をしていたのです。「こんなん有りかよ!」と正直思いましたが、船井総研にもたくさんのコンサルがいますのでその辺の交通整理が出来ていなかったようです。というか交通整理する気も無かったのでしょう。しかし兎にも角にもやらないとしようがありません。チラシを入れ続けましたが反響は余りありません。レスポンス3000分の1という触れ込みのチラシでしたが6000分の1くらいだったと思います。反響がなければ営業の仕事もないのでそのころ初村さんや大野君の仕事は朝から12時までチラシ撒き昼食をはさんで1時から5時までチラシ撒きといった状態でした。スタートから思いっきり滑ったのでした。

9.    えらいことがおこった

   そんな中でも、インターネットからの問合せで今もたくさんのリピートを
いただく阿倍野区の獣医さんから総額2000万を超える受注を頂いたりしながら、食つないでいました。柳と岡田が入社したのはそのころでした。今でこそ役員にまでなっている柳ですが、入社したころは現場監督の兄ちゃんといった感じで、お客さんのところへ電話していても「ほだら、いまからいきますわぁ」とガラガラ声で言う始末です。「『ほだら』はないやろ!!『それでは今からお伺いします』やろ!!!」とよく基本的なことから注意したものです。ただ彼の場合、適応能力はあったので3週間ぐらいで人並みの営業マンくらいの言葉遣いはできるようになりました。
そんな折、都島区のある新聞販売店から電話がかかってきました。「御宅とこ、アドサービスにチラシ頼んではるでしょう。どんな支払い方してはるのん?アドサービスから3ヶ月支払いありませんねん。」アドサービスはチラシを各新聞販売店に配る折込屋と呼ばれる業者です。すぐに私は「もしかして」と思いました。「販売店に支払いが滞るくらいお金に困った折込屋が次にすることはチラシを間引くことしかない!」と。それでみんなで手分けして各新聞販売店に電話で一斉にナサホームのチラシが何部持ち込まれているのか確認をしました。その結果は、こちらが依頼していた部数の約6割しか持ち込まれていません。4割は間引かれて捨てられていたのです。えらいことです。詐欺行為です。社員の中には告訴しようと言って色めき出すものもいました。しかし実は私は嬉しくてしようがなかったのです。いままで6000分の1のチラシ反響が折込屋を替えるだけで3600分の1にアップすることが確実になったわけです。今まで、チラシのレスポンスをあげる為にあれこれ考えていたことが解決したわけです。その業者にも多少の弁済はしてもらいましたが、訴訟を起こすこともなく不問にしました。お人好しかも知れませんが、このプラス思考が私の唯一の長所かもしれません。

10.  なぜかお金が残らない

   チラシのレスポンスも上がり、少しずつ受注も増えてきました。しかし、貯金通帳の残高は減るばかりです。みんな大体3割くらいの粗利で受注してきます。毎月の経費を考えると黒字のはずなのですが赤字なのです。受注時の粗利は30%でも完工すると10%近くダウンするのが原因でした。受注は毎月ある程度コンスタントにあがるのですが完工は工事の遅れなどである月に固まったりするものでいったいどれくらい下がっているのかということに気が付くまでに結構時間がかかってしまいました。経営者としては失格です。何か対策を講じたとしてもその結果がどの程度出ているかは半年くらい経たないと判りません。
ここから長く苦しい時期に入ってしまいました。いろいろ対策を講じてみましたがなかなかうまくいきません。急な変更は社員も付いてきにくかったとおもいます。新しい手を打とうとしても初村さんあたりは「ふんっ」とそっぽを向く始末です。やがて毎月の支払いにも苦労するようになりました。毎月数百万円足りません。先ず自分の貯金を全ておろし、足らない部分をクレジットカードやら何やらでキャッシングをしてしのいでいました。信用金庫でも毎月のように手形貸し付けをお願いしました。
毎月月末の2時ごろまで金策に走り回っていました。当時の事務の高橋さんには大変迷惑をかけました。外から電話で「いま200万入金したから○○と△△へ取敢えず振込して!!」と言った内容の電話を一日に2~3回していましたから。そのうちついに万策尽きてあと50万が払えない月がありました。そのときは都島店の近くの村山材木店さんに5日間支払いを猶予してもらえるように頭を下げに行きました。そのとき社長は病床に臥しておられたのですが奥様が「いつでもいいよ」と快く受けてくださいました。今でも感謝しています。後にも先にも支払いが遅れたのはこのときだけです。
ただ、この資金難のときでも会社をつくって2年目の頃に比べると変に腹が据わって悲壮感はありませんでした。あの2年目の時の悲壮感、絶望感が経営者としての度胸を鍛えてくれたのかもしれません。

ナサホームの20年(8)

5.    リフォーム業へ進出

   苦しみながらも徐々に業績は回復してきました。初めての社員、小田君(仮称)が入社してきたのはその頃でした。
会社設立の時からやりたいと思っていたリフォーム業ですが、なかなか不動産業から手が離せずにそのままになっていました。しかし、やっと2000年にリフォーム業へ進出しました。進出できた理由は小田君がそれなりに数字をあげられるようになり私自身が不動産仲介から一歩引く余裕が生まれたことが一番大きいと思います。
ただリフォームを始めるといっても私には建築の知識がほとんどありません。学生時代は土木学科でゼネコンでも宅地造成ばかりでした。不動産仲介をしていたときは仲介のお客さんでリフォームされる方がいらっしゃるとインテリアサイキ(現 サイキ)という業者に紹介していました。ただ、そのときの見積書を多数残していたので参考にさせてもらいました。そしてその業者の営業マンのクロスの測り方を見て覚えました。それで初めは自社で仲介したお客さんの内装から始めることにしました。リフォーム業というより内装屋さんという感覚です。ただ始めるといっても職人さんに知り合いが全くありません。そこで約1000世帯ある京橋グリーンハイツの中をうろうろして内装工事をしている部屋を見つけては職人さんに声をかけました。「うち不動産屋やねんけど、これからリフォームもやるからクロス貼ってほしいねんけど…。」こんなことで取敢えずリフォーム業をスタートさせました。しかし設備の知識が全く無い。また設備を仕入れるルートも全く知らない状態です。お客さんからもキッチン交換を頼まれてどうするべきか考えていたときにたまたま知合いの司法書士から建築会社が倒産してしょうがなく2人で独立した人がいるから下請けに使ってやってほしいと紹介されました。それが南さんという人と後からいろいろ問題を起こしてくれた山田(仮称)でした。ただ建築会社に長く勤めていた二人ですので問屋のルートや設備の職人の手配には役に立ってくれました。
その後暫くして南、山田の二人がお金でもめて喧嘩別れになり山田が途方にくれていたのでナサホームで現場監督をしてもらうことになりました。確かに当時は私の建築知識の乏しさをよく補ってくれたと思います。

6.     リフォーム事業の拡大へ

  実際に自分でわからないなりにリフォームの営業をしていて先ず一番に感じたことはその面白さです。何歳になっても新しいことをどんどん覚えるのは楽しくて仕方がありませんでした。また物創りの楽しさも充分に味わえます。二番目に感じたことは営業が楽ということでした。数千万の不動産を売るよりもどんどん決まってすごく楽です。不動産屋時代に培った営業力をそのまま持ち込むとほんとに面白いほど契約できました。自分でも天職だと思っていました。
事業の拡大意欲は十分ありましたのでリフォームの社員を入れ始めることにしました。当時はまだB-ingなどの雑誌に載せる資金的な余裕も無いので職安に求人を出しました。初めに来たのが建築経験者で宇田(仮称)という男。2~3ヶ月いましたが毎日、朝出社してすぐにチラシを撒きに行くと偽り水商売勤めの彼女のところへ昼寝をしに行っていたのがわかったので、すぐにやめてもらいました。次に来たのが初村(仮称)さんでした。今と違ってもう20キロ近く細く、育ちのよさそうな娘さんというのが始めの印象でした。建材メーカーでOLをしていたとのことでしたが営業経験がなく本人も初めはそれが不安だったようです。面接で「私に営業が出来るでしょうか?」と不安げに尋ねてきたのが昨日のことのようです。その後大野君も入ってきて私も含めて3人の体制で細々リフォーム業者をやっていました。でも当時は初村さんも大野君もチラシの手配りと廃材処分の毎日でした。

7.  船井総研との出会い

 ある日、夜遅くインターネットでリフォームのことを調べていたときのこと。船井総合研究所という経営コンサルタントの五十棲さんという人のサイトに出会いました。「売り上げ5000万のリフォーム会社が3年で8億」とか「会社立ち上げから2年で5億円を達成」とかすごい実例がたくさん載っていました。あまりの衝撃に12時を回るまで集中して観ていました。それから五十棲さんの「リフォーム事業 儲け方の極意」というわかりやすい題名のメールマガジンを申し込みバックナンバーも含めて読み漁りました。そして五十棲さんの「売上2億円の会社を10億円にする方法」という題名の本を買い一晩で読みきりました。とにかくすごい。オクタ、ウェーブ、アップリフォームジャパン、スペースアップなどが事例として取り上げられていました。また内容もわかりやすい。例えば『会社を大きくしたければ人をたくさん採用しなさい』という章があります。なにもノウハウが無いのに人をたくさん採用すればすぐ倒産するのに決まっています。ただ中を読んでいくと「なるほど」と納得できるように数値計算を交えて説明されています。
この本を見てからこの本のことが頭から離れません。でも「日本最大の経営コンサル会社がうちのコンサルなどしないだろう」との思いもありました。そんなときに『地域一番店セミナー リフォーム事業儲け方の極意』という如何にもそそる題名のセミナーが船井総研の大阪本社で開催されるのを知り参加することにしました。ここで講師をしていたのが後々お世話になることになる坂本氏、そして坂本氏の顧問先のハウジングスタッフの東原社長の成功体験談でした。船井総研のうまいところは自社のお客を上手に宣伝に利用するところです。経営コンサルの言うことだけであれば眉唾にも思えるのですが実際の経営者を引っ張り出すことで信憑性は一気に高まります。「小さい会社のコンサルもするみたいだけれど高いお金が必要なんだろうなあ」が正直な感想でした。なにせ売り上げ8000万、貯金通帳に大してお金もありませんでしたから。
セミナーから二日後、講師の坂本氏から電話がありました。「いま福岡の会社に来ているのですが明日は大阪に戻ります。一度お話しませんか?」話だけならと思い約束しました。その夜考えました。お金のことだけです。「毎月のフィーが30万以内ならお願いしよう。」と決めました。
翌日、当時中津にあった船井総研の広い応接室。坂本氏が「経営コンサルを入れるというのは時間を買うことです。」とかなんとかいろいろ説明してくれました。でも「何か船井総研がよさそう」と言うのはメルマガを読んで本も読んでセミナーも聞いて判っています。問題は値段だけです。話の早い段階で単刀直入に聞きました。「毎月いくらくらい必要ですか。」坂本氏は少し嫌な顔をしながら「本当はすぐに値段は言わないのですが言いますと初めに着手する際に経営戦略書を作りますので500万、それから毎月は25万です。」なんと想定外の価格です。月々25万はいいのですが、初めに着手金500万とは…。一瞬の間があくと坂本氏は「うちは物売りでもなんでもないので価格を下げるとかどうとかはしません。伸びる見込みのある会社とだけお付き合いしたい。」こちらの動揺を見透かして高飛車な態度でした。しかしこれがやはり経営コンサルのクロージングなのです。最高の営業トークです。私は前夜に決めていた「30万以内」に収まっていたので「契約するのはどうしたらいいんですか?」とすぐ決断しました。坂本氏はそれでも少し横柄な態度で契約書類等の手続きをしました。後から聞いた話では内心では一発で契約してくれることに驚いて嬉しかったそうです。しかしそんな本心はかけらも見せず契約手続きは終了しました。2001年の11月の終わり頃のことでした。

ナサホームの20年(7)

2.      年が明けて

 年が明けていよいよ本格的に営業開始なのですがこの年の1月10日に父親が亡くなりました。死ぬ前にとりあえず自分の会社を作れて父親に見せられたと言うことがせめてもの親孝行かなとは思いましたが。
仕事の方は、もちろん顧客名簿も無く来る日も来る日もチラシを手撒きする毎日です。毎朝、レインズ(不動産業者間の不動産物件情報ネットワーク)で他業者の登録した物件を資料請求しその中で売れそうだと思った物件1件選びをすぐB5のチラシにして輪転機で2000枚程度印刷して物件周辺に配って歩くのです。単調な仕事ですがこれでサラリーマン時代に何件も売っていました。ただ大手業者のチラシと聞いたことも無い業者のチラシでどの程度のレスポンスの違いがあるかは全くわからないまま体力勝負を挑んでいました。また夕方からはB5のチラシに物件を3~6件の載せたものを作り8時ごろから2時間くらい、約2000枚を決まったマンションに配り続けました。孤独な作業でした。
結果、このチラシ撒きは4年くらい続けました。物件に対する反響はそれなりにありましたが、大手業者のように売りの依頼を受けることはほとんどありませんでした。
孤独な作業を一人で延々と続けていたわけですが、おかげで周辺の業者さんにも認めてもらえるようになってきました。あるとき三和銀行系の東洋不動産販売の京橋店所長から東洋不動産販売の社員と一緒に夕食会を開いて頂いたときはホントに涙が出るほどうれしかった。また当時の三和銀行の融資課長から予算1億円のお客さんを紹介いただき成約できたのもうれしく有難い限りでした。たった一人でコツコツと誰に褒められるわけでもなく努力を続けているとやはり誰かは見ていてくれる。認めてくれる。もしかしたら神様が可哀想に思ってチャンスを与えてくれる。自然にそんな風に思えてきました。神の存在を何となく感じたときでした。

3.  会社が潰れる

 順調にスタートしたかに見えた会社もここからが大変でした。世間では「北海道拓殖銀行の破綻」「山一證券の倒産」と立て続けに大型倒産が起こっていました。いわゆる金融不安の始まりです。ニュースでも連日、不景気,不景気といい続けています。山一證券の当時の社長の涙の記者会見が何ヶ月もの間、金融不安の象徴として繰り返し放送されます。
そんな状態で中古マンションを買う人なんていません。極端に反響が減り、来る日も来る日も何もすることがありません。事務所にいても気が滅入るばかりです。その当時は梅田や難波にホームレスが溢れていました。しかしホームレスを他人事とは思えませんでした。自分も紙一重です。気持ちの上で緊張の糸を一瞬でも緩めるとあのようになるのだと本気で考えていました。テレビを観ていると経営者の自殺者が急増していると言っていました。もちろん自分は死ぬつもりはありませんが自殺者の気持ちが痛いほどよくわかりました。「死んでいく人は楽になるのだろうなあ」と羨ましくさえ思ったものでした。 ただ今から思うとあの当時は「これで会社潰れたら、日住(前に務めていた会社)の連中にかっこ悪い」とか「嬉しがって娘の名前会社につけて2年やそこらで潰したら馬鹿にされる。」など変なつまらないプライドにも押し潰されていたように思います。経営者としてまだまだ未熟でした。

4.  火事になったマンションの話

 そんな苦しい状況のさなか、こんなことがありました。手撒きチラシの反響でご主人が歯医者さんのご夫婦がいらっしゃいました。ご案内したマンションを気に入られすぐに5000万円で購入申し込みを頂きました。ただその後、契約に向けて物件調査をしているとそのお部屋が過去に火災が発生し内部が全焼したお部屋であるということがわかりました。すべてを包み隠さずご報告したのですが、ご夫婦はだいぶ考えられたた結果購入する意思を示されました。ただ、私は納得できませんでした。ご夫婦には小学生の可愛い御嬢さんがいらっしゃいます。もし、学校で火事のことでいろいろ言われたりイジメがあったりすると可哀そうに思い、やめられた方がいいと強く勧めました。
粛々と契約手続きを進めていれば仲介手数料156万円が入ってきます。でも娘さんのことが心配でご夫婦も後で後悔されると気の毒なのでそうしてしまいました。同業者にその話をすると10人が10人とも契約すると言います。「おまえあほちゃうか?」というのが大勢でした。ただ、誠実な気持ちでそうしたことが3年ほどして返ってきました。そのご夫婦が自宅を売却されることになり、それを弊社に専任で任せてくださいました。またその物件を弊社を通じて買ってくれたお客様にもその当時すでに始めていたリフォームで500万円以上の工事をご契約いただきました。
やはり、商売は誠実が一番。目先の156万を諦めたおかげで3年後、2倍にも3倍にもなって返ってきました。

ナサホームの20年(6)

  第2部

  1. 会社設立まで
    子供の頃から漠然と考えていた独立のときがやってきました。なぜ子供の頃から考えていたからというと、先にも記した通り幼い頃に父親の経営する鉄工所が倒産し貧乏暮らしを余儀なくされていたので自分は失敗しない会社の経営者になることが人生の目標だったのです。
    よくいろいろな会社の創業時の話の中で創業者が「世間の人々が○○で不便をしているのを見て、日本中の人々を幸せにしようと思ってこの会社を設立しました」とか「この業界に入って業界の慣習はおかしいと強く思い、業界の悪習を正そうと自分で創業しました」と言う人がよくいます。物語としては素敵ですが恐らく後付だと思います。当時の私もそんな高尚なことは考えもせず、ただ経営者になって成功することだけが夢でした。後から私利私欲以外のいろいろな想いが集積してきてそういう素敵な物語に変化していくものだと思います。私もそうでした。
    平成8年、35歳の少し遅すぎる独立です。9月に日住サービスを辞め新会社設立準備に入りました。有限会社より株式会社の方が聞こえが良いだろうと言うだけの理由で株式会社に決めましたが資本金1000万がありません。当時貯金が400万、身内に貸していたお金を無理やり取り立てても600万。 あとは・・・・。クレジットカードで借りまくって950万円。あとの50万は当時乗っていたボロ車を現物出資としてなんとか帳尻をあわせました。
    会社設立に走り回って事務所も都島本通に借り、宅建免許もとって会社が出来ました。出来たときの感想は、昔から目標にしていた割に設立なんていとも簡単にできるんだなあと言ったところでした。しかしそこから先を考えた場合、大変です。太い人脈があるわけでもなくチラシの反響に頼るのみ。いままで大手の看板で仕事をしていたからチラシの反響も読めたけれど、さて一人でチラシを打って電話が来るかどうかは未知数です。
    1000万の資本金も不動産協会の加盟金や事務所の保証金、内装費、事務機器等で残りは200万しかありません。とりあえず国民金融公庫で1000万借りて合計1200万で営業開始です。月の経費が約100万、自分の給料はとりあえずゼロ。自分の収入は利益が出てから考えようと思っていました。しかし10ヶ月売上ゼロなら破産。チラシを打って無反応ならありえることです。 この時強く思ったことは「今まで取引先の不動産会社でアホな社長が沢山いたけどあんなアホなおっさんでも会社を何年も継続させいてる。だからある意味たいしたもんやなあ。」ということをまじめに感心していました。
    また事務所の内装工事をする際にこんなことがありました。当時まだリフォームをすぐに自社でするつもりはなかったので他業者に見積をとりました。1社はサラリーマン時代の取引業者、もう1社はチラシで見て電話した業者でした。結果は知合いの業者は220万円、チラシの業者は350万でした。チラシ業者の現調時に「失礼があったらいけませんので先に言っておきますが相見積はとりますよ。」と伝えると「うちが値段高かったら言ってください。合わせますので。」との応えでした。この時点で高くても安くてもその業者に依頼するつもりはなくなりました。後から値段を合わせたり下をくぐることは商売上とても卑怯なことだと考えたからです。コピー機をリースするときにも同じようなことがありました。これも勤めていた会社が取引していた事務機器の商社からリースすることを決めていたのですが、見積もりの際「いちいち値切るのも嫌やから最初から目いっぱい誠意のある値段出して下さいね。」と伝えておいて出た見積は5年リースで23000円でした。こんなものかと思い決めるつもりでいたのですが、オフィス家具の業者が自分のところもコピーやっているので見積もりだけでも出させてほしいといってきたので見積もりを出してもらいました。なんとほぼ同機能のコピー機が同じ5年リースで12000円。先の業者に断りを入れると「すみません、うちも頑張って11500円まで下げさせていただきます。」「最初の見積はなんやってん!」結局一社目はこちらが相場を知らないと思いだましにかかっていたのでした。しかも業界大手の〇塚商会ですから当初信用したのも無理はありません。「世の中にはお客をだましたり変に駆引きしたりでうごめいている輩がうようよいる。誠実に仕事をこなせば時間はかかっても必ずお客さんからご支持がもらえる。」と強く思いました。このことはその後の会社経営の中で基本的な考え方となっており、今、まがりなりにも会社が拡大していけるのもこの考え方があればこそだと思います。
    11月の末ごろに宅建免許が下りて12月から営業を開始しました。まあ12月はチラシをまいて地域の人たちにナサホームという会社が出来たという事を少しでも認知してもらえればいいか位に思っていましたが、結果として売買1件 賃貸1件の契約ができました。ありがたい話で本当に今でも感謝しています。余談ですがその2件のお客さんの1組は若いご夫婦でもう1組は新婚さんでしたが二組とも1年位後に離婚されました。詳しくは書きませんが二組とも最後は奥さんが強かった。

ナサホームの20年(5)

10. 日住サービス

平成5年4月1日、心新たに日住サービスに出社しました。そうすると、いきなりこの人について説明を受けるようにと指示をされました。この人とは建設部の部長でした。すなわち建設部に配属されたわけです。独立しやすそうだから不動産の会社に入ったのに建設部に入るくらいなら鴻池組でよかった訳で出端をくじかれた感じです。
またこの建設部長の話がくだらない。朝は先ずモーニングに行こう。昼は今のイーマのあたりが当時バラックの密集地だったのですがその中に阪神百貨店の女の子がいっぱい来る通称阪神食堂と呼ばれている中華料理屋があるから毎日行くだとか3時のコーヒータイムはどこそこの喫茶店へ行けばポイントカードがあって10回行けばタダになるとか・・・・・。
とにかくくだらない話と自分の過去の自慢話をモーニング、阪神食堂、ポイントカードの喫茶店と付き合わされながら聞かされました。その夜帰宅してから考えました。不動産営業ができずこの上司の下で仕事をするなら辞めようと決心し4月2日に出社してすぐ建設部長にその話をしました。彼はあわてて社長のところへ行き、しばらくすると社長へ呼ばれ社長と専務から不動産の営業部への配属を言い渡されました。その時社長が「給料は多いほうがいいだろうから・・・・」とおっしゃりかけたのを遮って「実績のないうちはいくらでもいいです。実績あげたら沢山ください。」と言いました。社長と専務は笑いながら「よし」と言ってくれましたが、私が馬鹿でした。いくら実績を上げてもほとんど給料が上がることはありませんでした。
不動産営業マンになってとにかくガムシャラでした。数字で他と圧倒的な差をつけようと必死でした。人より多少業績が良いだけでは大した成功は期待できない。夢を実現するためには他を圧倒するくらいダントツでなければならないと考えていたのでした。また仕事も面白くて仕方がなかった。一般客への売買仲介なのですが、自分の話の組立て方一つで売主さんでも買主さんでも自分の思う方向に気持ちを持っていくことができる。思い通りにハマった時にはこれぞ仕事の醍醐味と思えました。とにかく必死で頑張りましたが、頑張りすぎて車を運転中、意識が朦朧としかけたことがありました。「過労死ってこんな感じなんかな」と思ったのを覚えています。
3か月目からはトップクラスの売上をあげ1年ほどで新大阪店の店長になりました。残念ながら私の所属した本店営業部も新大阪店も数字の上がる店ではなかったのですが、それでも新大阪店では連続店舗達成を続けました。
ただ毎月、恐怖でした。いくら売上をあげても月が替わればゼロになり、今月こそボウズになるかもしれない。ずっと成績が良かっただけに月初の2週間ほど売上があがらないだけで本社からも他店からも何かあったのかと電話がかかってくる。すごいプレッシャーですが同時にだんだん仕事にもマンネリ感を感じ始めていました。結果として退職までずっと成績は良かったです。だんだん手を抜いても成績が上がるようになってきた。手の抜きどころがわかってだんだん要領がよくなってきたのだと思います。

11.  退職へ

充実した日住サービスでの勤務でしたが退職の時が来ました。もともと独立志向のため辞める前提でしたが、直接の辞めるきっかけは少しくだらないことでした。
約3年勤めた12月、すごく売上を上げました。12月の売上成績で1月の給料に歩合がつくので1月の給料は80万円以上あるはずでした。それがなんとふたを開けると22万円です。すぐに総務部長へ電話したところ「当社は今年から部店長は年俸制になりました。このため歩合はつきません」あまりにも理不尽な話です。何の説明もないまま前月分の歩合をチャラにされたのです。それも60万位が消えたのです。総務部長曰く「先に説明しなかったのは悪かったが追って説明会を開く」とのことでした。後日のその説明会でも年俸制になった経緯はよくわかりませんし自分の年俸がいくらになるのかも分かりません。ただ去年年収は確保しますとだけ繰り返していました。
去年年収を確保してくれるなら賞与は半期で100万以上あるはずです。それで夏のボーナスを楽しみにしていましたが50万くらいしかありませんでした。なぜか腹も立ちませんでしたし笑えて来ました。独立に踏み切る良いきっかけになったと思い嬉しかったことを覚えています。平成8年7月のことでした。

       続く

ナサホームの20年(4)

7.就職

昭和59年3月大学を卒業し、ゼネコンの鴻池組に入社しました。大阪が地場のゼネコンで当時売上で4~5000億、社員数も4000人位はいたと思います。ここにはもちろん建築部門もあるのですが、私は土木部門の係員として入社し、新人研修の後、宅地造成現場に配属となりました。
大型重機が走り回る工事現場、森を伐採し山を削り谷を埋め住宅地を作る仕事です。タイヤの直径が2m以上あるモータースクレーパーという重機や、運転席に上るのに梯子で上るようなブルドーザーが山を削る様は迫力満点でした。ただ、自分は子供のころから起業する目標があります。現場配属からしばらくして、ここにいては自分の夢、目標は実現できないと確信をしました。それで初めは1年か2年で辞めよう位に考えていたのですが、上司先輩に恵まれ、お世話になった上司に迷惑をかけたくなかったので現場がかわったタイミングで離職しようと考えました。ただ幸か不幸か、現場が終わっても次の現場に連れていかれてしまい、結局7年半30歳まで勤務しました。
この時も次の現場へ連れていかれかけたのでお世話になった上司に無理にお願いをして退職させてもらいました。退職の話を進める過程で色々な上司先輩、協力業者の方から引き留めていただいたり、お前は現場監督が天職だとのお言葉を頂いたりしましたがやはり子供のころからの目標のために我儘を通させていただきました。
平成3年8月 30歳での退職でした。

8.転職

平成3年8月、時はバブル経済真っ只中、と山の中の現場監督は思っていたのですが、実際にはその時点でバブルははじけていました。平成2年に株価も急落していたのでおかしいなと思っている人もいましたがまだバブルが続いていると思っている人も多かった時期でした。後から振り返ってあの頃はもうはじけていたという認識でしょう。
そんな事もわからぬまま転職活動は不動産業者に絞っていました。理由は起業がしやすそうな事。宅建の資格を取っていたこと。それとバブルがはじけていたのを知らなかったことです。
就職情報誌を頼りに3社面接に行きました。1社目は谷町の小さなビルの上層階にある小さな不動産会社でした。仕立ての良いスーツを着た体格のいい30代くらいの人2人に面接していただき、面接の最後に「内定出せますけど?」と言ってもらえましたが、正直面接の練習と言った気持ちで行っていたのではっきり返事しないまま帰ってきました。ただ、個人面接の経験が全くなかったのですごく緊張しました。(新卒時の鴻池組では広島支店面接も本社面接も集団面接でした)ただそれ以降の面接は全く緊張した記憶がないので練習にはなったのでしょう。2社目に行ったのが中央区の堺筋沿いに自社ビルを持つ開発系の不動産会社でした。ビルの1階のエントランスから見えるガラス張りのところに総務部がありそこの結構年配の総務部長が面接してくれました。
後日、その方から食事にお誘い頂きました。その時にお話いただいた内容は概ね次のようなことです。

・あなたのような学歴職歴のしっかりした人が転職するのは前職で     何か不正やミスをしたのか?
・社長はあなたのことを是非採用しろと言っているがもったいない
と思う。
・他の会社もよく見て進路は決めなさい。

結局、他社に入ることになりその会社にはその報告とお礼にお伺いしました。報告に来たことをすごく喜んでくれて激励されました。
後日、不動産業界に入ってわかりましたがその会社は反社会的勢力と関係の深い会社だったようで、その総務部長は暗に自社へ入社しないように勧めてくれていたのでした。私と息子さんの歳も近かったようで息子のように思ってくれていたのかもしれません。
そして3社目に面接に行った業務用地の仲介を専門とする会社に入社しましたが、ここはある意味反社会的勢力よりすさまじい会社でした。社長は朝から晩まで社員を罵倒し続けている。社員を辞めさせるのは社長と社長の弟の部長が連携して5分でクビ。ゼネコンから転職して大手と零細企業はこんなに違うものかと思いました。とにかく営業マンが事務所にいると腹が立つようでした。朝に訪問先へのアポイントの電話でもたついていると社長が出社してきて餌食になるのです。とにかく社長が来るまでに会社を出てアポイントは公衆電話からとる。夜は一番遅くに帰ってくる。ホワイトボードには訪問先をいっぱい書いておく。それだけでこの社長にかなり気に入ってもらっていました。単純なものです。しかし皆この単純なことができないようで普通に餌食になっていました。またよく朝の通勤中に腹痛が起こって今から帰りますと電話してくる営業マンがいました。いい大人が腹痛で会社を休むなんて最低だと思っていました。おそらくその日の仕事の関係で社長の餌食になるのを予想してズル休みをしているのだと思います。しかしある日の朝、私も仕事の関係でどんなに要領よく立ち回っても社長の餌食になりそうな日がありました。「あー、体調が悪いと言って休みたいな」そう思ってハッとしました。そこでズル休みをしたら他の連中と同じになってしまいます。
そこで考えたのがなんと、ズル休みをしなければならないくらいなら会社を辞めようということでした。もちろんそれには伏線もあり、もう何か月も会社への入金がゼロで給料の支払いも遅れがち。ややこしいところから借り入れをしているらしい。とにかく社長の頭が固く新しい業務改善をしようとせずに過去の自身の成功体験を自慢げに話しながら社員を罵倒し続ける。その状況がだいぶ前から分かっていてこの会社に未来がないことはわかっていました。ただ自分がそれまでに貰った給料分くらいはお返ししてから辞めようと思っていました。しかしこの日、気持ちが折れました。会社へ行って社長に退職を告げると涙しながら怒鳴られました。改めて本当に自分は可愛がられていたのだなと思いました。

9. 再度転職活動

突然辞めて次の日から無職となりました。当時八戸ノ里の戸建て住宅に住んでいましたので出勤しないと近所の手前微妙でした。そこで毎朝スーツを着て車で家を出、大阪市中央区の公園沿いの木陰に車を停めてそこで一日過ごしました。するとその公園の周りには朝から夕方までいろいろな会社の営業車がずっと停まっています。中には営業マンらしき人がずっと寝ています。「こいつらみんな負け犬や」などと思いながらも私も車を並べて車の中でBingやDODAなどの転職雑誌を見て履歴書を書いていたのを覚えています。
何社か履歴書を出したのですが先ず日住サービスと住友不動産販売の面接日が決まりました。そして3月31日に日住サービスへ面接に行きました。社長以下役員5人くらいの面接でしたが、経歴についてその時何を考えどう行動したか細かく質問されたのを覚えています。その日の夜、自宅に電話があり内定である旨と明日がちょうど4月1日だから明日から出社できるかとのことでした。住友はじめ他社の面接もあったのですが折角だからまあいいかと入社の承諾をして翌日より出社しました。約10日間の失業者生活でした。

続く

ナサホームの20年(3)

5.   大学時代

もともと建築科志望で受験をしていて広島大学工学部第4類へ入学しましたが、ここは建築、土木、船舶と3つの学科を4類として入学させ、入学後1年間の成績で学科を振り分けるというものでした。私は残念ながら土木学科の方へ回されることとなり、少し遠回りな人生の始まりであったと思います。中には建築会社の社長の息子もいて辞めることも考えたようでしたが結局一人も辞めた人は出ませんでした。
大学へ入学し当初、大学の学務課の斡旋で広島市南区宇品東というところの風呂はなくトイレも共同の家賃1万円のアパートに入居しました。ただあまりにもぼろぼろのアパートだったので半年くらいで中区吉島東へ引っ越しました。ここでの約1年半は比較的快適に過ごせたと思います。奨学金も貰っていましたしよくバイトもしましたが年中お金がない貧乏学生でした。バイト代が少し入ると油断してパチンコで使ってしまうような無計画なところもありました。「今日のご飯代がない」こんなピンチの時に当時横川駅の近くにあった学生相談所へ行きその日の夜のバイトを見つけては3千円くらいをもらって食いつないだりしていました。多くが百貨店の特設会場を設営などのバイトでした。また、だんだんズルさも出てきて時計やオーディオを質屋に預けたりもしていました。ある日、昼近くまで寝ていると学校の友人が訪ねてきました。何故か親切に「コーヒー入れたろか」とか世話を焼いてくれます。私はそのとき独り言で「あー金ないわー」と伸びをしていうと彼は「えっ、おれ金借りにきてん」と困った顔で言います。「しょうがないな」ということで彼を連れて質屋へ行きましたが彼の時計では質屋が引き取ってくれず仕方なしに私の時計を質草にして二人でささやかな食事をしたことを覚えています。彼は今では三井住友建設広島支店の営業部長です。大学入学後2年間は広島市内の中心部に住み、それなりの学生生活でしたが3年への進級時に大学統合移転の第一陣として工学部が東広島市西条町に移転することになっていました。今でこそ全学部が移転を済ませ緑豊かで整備された素晴らしい大学になっていますが、当時は本当に何もない山の中に工学部だけがぽつんと出来たという感じでした。当然アパート・マンションの類もまだなく、皆学生寮に申し込みますが私は抽選で漏れました。他の落選した学生はポツリポツリと出来てきた新築マンションへ住むこととなります。ただ、当時の我々の感覚ではかなり高額で私には住めませんでした。
そこで結果的に大学から5キロ以上離れた農家の納屋の2階に間借りすることになりました。家賃はそこの息子の家庭教師。風呂も母屋へ借りにいかなければならず、結構気を使う不自由な暮らしでした。
ただ、春には田植えを手伝い、梅雨時期には網戸にたくさんの蛍が集まってきます。田に水を満たせば一晩中、カエルの大合唱、夏ごろには農薬の散布をするのでバイクで通学していると風呂で頭を洗うときに独特の匂いがしました。秋には稲刈りも体験させてもらいましたし、冬には結構な積雪がありました。およそ関西で学生生活をしていたら体験できないことを体験できたと思います。

6.  大学の研究室

4年になると研究室に配属され卒論に向けた実験をする日々になりました。
研究室には交通、水理、河海、土質、構造、材料、衛生などがありましたが私は材料研究室に希望して入りました。ここに決めた理由が安易なのですが先輩からの勧誘で「他の研究室行ったらFORTRANやBASIC解らないといけないよ。材料研究室は四則計算と体力だけで大丈夫」この一言で集まった同級生が6人いました。私以外は全員広島県人。実はそれまで中四国出身者とは何故かそりが合わないと思っていました。県民性が違う云々といってやはり一匹狼的に過ごしていましたが、この研究室での1年間で本当に彼らとも打解け、今も親交が続いています。
材料研究室では朝は10時から実験が始まり実験が終わるのが9時くらいでした。毎日つなぎの作業服に着替え、コンクリートを練って供試体や梁を作り、載荷試験を行って壊す。この繰り返しです。学部生6人と院生2人の8人は昼も夜も食事を共にした1年でした。
ただ、結論だけを言いますと院生の方が修士論文提出間際の2月19日に自殺をするというショッキングな事件が起こりました。私は初めて人の生き死にかかわり、この後の自分自身の人生観に少なからず影響を受けました。その先輩も死ぬ前にいろいろな前兆がありました。それを誰も死の前兆としては気が付かなかったのですが、自分のこの後の人生で身近にもしそういう前兆を出している人がいれば必ず気づいて救ってあげなければならないと心に誓いました。

 

続く