ナサホームの20年(17)

11.  名古屋進出

2014年4月1日から消費税が5%から8%に上がるとのことでしたが工事の完成が2014年3月31日までとなるため2013年の夏ごろからは既に駆け込み需要は始まっていました。受注も上がりますが現場も忙しく大変な時期でした。この時期から再び大きな変化が訪れます。
2014年のことですがHDC神戸でお世話になっていますABC開発から名古屋にHDCを出すので一緒に名古屋へ進出しませんかというお誘いがありました。聞けば大名古屋ビルヂングの建て替え物件にHDCを出すとのことです。大名古屋ビルヂングは名古屋駅の真正面にありそのレトロな名前のために以前からよく知っていました。地下の居酒屋で同業者勉強会の懇親会などもしていたので思い入れのあるビルで建替えのニュースを見てネットで調べたりもしていました。ABC開発から話があったころ、不調のみずらぼにあってHDC神戸がすごく順調に推移していました。もともと名古屋への出店など考えてもいませんでしたがHDCと一緒に進出するならばと思い、前向きに話を進めました。ただ予約契約を結んだ頃から色々と横やりが入るようになってきました。
まず名古屋の〇〇ホームの△△社長。ナサが名古屋に出店することに強く不快感を示してきます。同業者が関西から進出してきてシェアを奪われるのを嫌がるのは当然と言えば当然です。ただ普通は表立って言いません。△△社長は私を年下と思っていたようでそれで強く出られたのかもしれません。
また銀行の人や他の業界で全国展開している会社の人は異口同音に「名古屋は閉鎖的で大阪人を毛嫌いしているから商売がやりにくい」と言います。
それらのことが本当か否か確認したくて船井総研の勉強会で名古屋会場の時に参加してみました。経営者15名限定で経営相談や状況報告などをする勉強会ですがそこで聞いてみました。「名古屋人は大阪人が嫌いと聞きますが本当ですか?同じ関西人でも京都人はリスペクトしているとも聞きますがそれも本当ですか?」
答えは辛辣でした。まず一人目が「名古屋人は騙されるのが嫌なので・・」二人目の女社長は「個人的には大阪の方は面白くって好きなんだけど、一緒に仕事はしたくないです。」そのあとの人もほぼ同じ調子です。また京都の人は上品でいいという認識が大勢です。なかなか先が思いやられる展開となってきました。この排他的な地域ということは大きな心配事ですがもう不動産の契約をした以上引き下がるわけにはいきません。まず考えたのが2016年春の大名古屋ビルヂング開業までに職人のネットワークを作りオープン後すぐに営業活動に専念したいと思い、パイロット店を出店し営業を始めてみることにしました。それが昭和区の八事山手通店ですが名古屋の高級住宅地のど真ん中です。八事と大名古屋ビルヂングに出店することで他のリフォーム会社を圧倒するブランディングが可能だと考えました。
そして責任者には新規出店の得意な役員の柳、他のスタッフは岐阜出身の山田由美子と自ら立候補した西井の3名でした。
そして八事山手通店は2015年6月に営業を開始しました。

12.  経済産業大臣賞受賞

2014年の暮れ、リフォーム産業新聞社の伽藍社長が来社されました。その時の雑談の中で経済産業省が「先進的なビジネスモデルを有するリフォーム事業者表彰」を行うとのことでみずらぼで応募したらどうかというお話がありました。まさか自社がそのような賞を受賞できるとも思っていませんでしたが一応挑戦してみることにしました。まず自社のビジネスモデルの特殊性、新規性などを書類で提出するのですがだいぶ頭を悩ませました。いろいろ考えた中で通常リフォーム事業者を表彰するなら国土交通省だと思うのですがなぜ経済産業省なんだろうと考え経済産業省の求めているものは何かを考えて次の3点に絞って応募書類を作成しました。
① 水廻り専門店によりリフォームの敷居を下げ潜在顧客の掘り起こしがで
きる
② 2ブランドで営業することにより未経験人材の雇用が促進できる。
③ 水回りに絞ることにより営業としての強度を下げ育児休暇明けの女性を
継続して雇用するなど働き方のバリエーションを増やした。
この結果として1次審査は合格し、矢野経済研究所で行われた2次審査も無事にパスすることができました。
合計21社が表彰されましたが他の業者さんの顔ぶれを見てもTOTO LIXIL エディオンなどの超大手企業や他にも大手企業の子会社、関連会社が多数みられます。弊社のような独立系中小企業は少なく「よく選んでもらえたな」というのが正直な印象でした。そして2015年3月、東京ビッグサイトでの表彰式では3社選ばれてのパネルディスカッションも経験しました。このパネルディスカッションでは事前に霞が関の経済産業省へ行って打ち合わせもあったのですが何から何まで初めてのことでいい経験をさせていただきました。

この経済産業省の表彰が3年以上前のことです。
もちろんこの後もそれはそれはいろいろな苦労がありました。
そしてそれらのことも既に文章にしているのですがまだあまりにも最近のことで登場している人物にも迷惑が掛かったらいけないので、このブログでの公開は見送ることにします。

「ナサホームの20年」をブログに連載してみて、多くの方から「面白い」「江川さんも苦労してるんや」「しばらく止まってるから早く書いて」などなどご意見を頂きました。
拙い文章にもかかわらず我慢して読んでいただきまして感謝しております。

また年月が経って多少のことは時効としてお許しいただける時期が来れば、またこの続きを公開させていただこうと思います。

ナサホームの20年(16)

9.みずらぼ急成長

2011年に都島店 2012年にHDC神戸店、尼崎つかしん店の2店舗、2013年に西神中央店、エトレ豊中店、夙川店、千里丘店の4店舗、2014年は六甲店、枚方店、奈良大森町店、阿倍野店の4店舗と急拡大していきました。
みずらぼは先にも書いたようにナサホームの成長の遅さを補い急拡大することを宿命として作った会社ですので出店には力を入れました。ただ初期のころのある日、林社長が表情を曇らせながら私のところへやってきて言いました。「社長、面接は社長がやってください。僕がこんなんだから面接しても誰も入ってきませんわ。」要は内定辞退が続いて本人も自信を無くしたのでしょう。これ以降みずらぼの採用はナサホームの採用と一緒に私がするようになりました。初期のみずらぼの採用といえば面白いエピソードがあります。林と私でみずらぼの面接を都島店で行っていました。なかなか会話のキャッチボールも軽快にできて良い印象の人が来ました。そして最後に筆記試験をやったのですがなんと11点しか取れていません。新卒採用で大学生にさせて平均点が50点くらいの試験です。あの頃は私も若かったのか今思うと乱暴ですが、本人の前で林に言いました。「この人採用するかどうかお前に任すわ。でもこの人採用するならこの筆記試験する意味ないよな。大津、焼肉ランチ食いに行こう。」ランチから帰ってくると採用にしたといいます。それで入社してきたのが棚沢君です。それ以降この筆記試験はやっていません。

10.大坂塾

ある時、愛知県豊橋市の建築会社ブルーハウスの森社長から「大坂塾って勉強会があるんだけど行ってみない」とお誘いを受けました。それで2013年7月に説明会に相当する戦略セミナーに参加しました。大阪塾長がご自身の経験を語り経営の考え方や方法を説明される内容ですが、私自身の考え方に非常に近く共感することができました。船井総研などのコンサルタントは大胆に攻めることを良とする傾向がありますが、大阪塾長はどちらかと言えばそれを戒める立場です。経営者は順調な時に行き過ぎてしまうことがあるけれどもそこから破滅の道を歩んだ多くの会社の話もされます。当時私はみずらぼの出店攻勢をかけ始めていたころでしたが「しっかりした金型ができるまで出店を急ぐな」と戒められます。「経営者はオドオドビクビク経営をしなければならない」このことばも名言だと思います。
大阪塾長は香川県の小さな電気店の長男として生まれ後を継ぎ紆余曲折の苦労の末、ケーズデンキのFCとして500億円以上の企業に育て上げご自身もケーズデンキの常務取締役を務められた方です。そのエッセンスを学べる訳ですがとても真似のできないことが多いのです。何事も用意周到、準備万端、計画づくで行動されます。そして社員教育のレベルも他よりよりよいといったレベルではなく他を圧倒するくらい徹底的にレベルアップをされます。
この大坂靖彦塾長との出会いはみずらぼの出店攻勢の時期で業界でも注目され始めていた時期だけに有頂天にならないように神様が引き合わせてくれたのかと思えるほどの絶妙のタイミングでした。大坂塾長からは現在も私のメンターとしていろいろな教えを頂いています。

ナサホームの20年(15)

8,    みずらぼ始動

ハウスメーカーや家電量販店、ホームセンターがリフォーム事業に参入してくる話題が業界紙を賑わわすようになってきました。それらが本格参入してくる前にリフォーム専業店として一定のポジションを確立する必要を痛感しました。ただこの当時、まだ売上高も30億円の手前でやや頭打ち感がありました。これが30億円の壁かなとも感じネットでいろいろ調べてみました。しかし売上3億円の壁、10億円の壁という記述は沢山あり関連する書籍も出ているのですが30億円の壁については、書籍はおろかネット上の記述もありません。よくよく考えると30億まで行く会社が少ないので本を出しても売れないからだと思いました。いろいろ思い悩んで業界研究、企業研究をしてみました。すると比較的早く成長している会社はすべて水廻り工事の比率が高いことに気が付きました。このことは結構衝撃でした。これまで弊社では「いいリフォームをする会社」「高額工事を請け負う会社」こんなブランディングを一生懸命していました。販促活動でもそうですし、梅田の一等地に本社を移したのもすべてそのブランディングのためでした。しかしそのことが会社の成長にはマイナスであるということに気が付いたのです。そのようなレベルの高いリフォームをやろうとすると高い提案力と工事品質の管理の能力が必要です。それが可能な人材の育成には時間がかかり企業としての成長速度は遅くなってしまいます。デザイン性の高く品質の良い大型工事を扱いたいという想いがあるのですがやはり経営者として企業を成長もさせたい。今更これまでブランディングしてきたことを方向転換もできません。
それでさんざん悩んだ結果、リフォームの中でも需要が多い水廻り工事に絞った子会社をつくることにしました。つまりブランドを分けようと考えたのです。このことにより、新人も覚えるべき建築知識が水廻り工事のみに限定でき早期の人材育成が可能となります。その結果として高速での店舗展開が可能になると考えました。
社名は社員の公募により白井君の出した「みずらぼ」に決まりました。由来は水廻りの「みず」と研究所を意味する英単語「ラボラトリー」からもじったものです。次に社長を誰にするかですが、これは当時、総務部長をしていた取締役の林君が立候補してきました。理由はナサの営業人員を減らすことなく自分が一番適任と思うとのことでしたが、数字にも強いので任せてみることにしました。
そして2011年6月に会社を設立し7月に1号店を都島区高倉町にオープンしました。
ただ、このオープニングでいきなり大失敗をやってしましました。オープン初日、問屋さんやメーカーさんのお偉方が激励や応援に駆けつけていました。華々しくスタートするつもりだったのですがお客様が来ません。10時にオープンしてから待てど暮らせど全く来ません。午後2時ごろになって林社長に「チラシどれくらい入れたん?」と聞いてみると「はい、手撒きで4000枚しました」これにはショックでした。通常ナサホームの新店オープン時には2回に分けて20万枚以上新聞折込をします。それが4000枚。50分の1。林に伝えてなかった私が悪いのですが、任せた以上あまり口出ししてはいけないと思ったのとオープニングで大量にチラシを配布していることぐらいわかっているだろうという私の思い込みが原因でした。これ以降も任せきることと口を出すことの狭間のちょうどいいところを探すのがなかなか難しく感じます。もう一つ意外なことがありました。みずらぼを設立し事業を始めるにあたり商流をこれまでのナサホームとは変えてみることにしました。例えばナサホームでTOTOは問屋A、LIXILは問屋B、Panasonicは問屋Cと決まっていたとします。これをみずらぼではTOTOを問屋C、LIXILを問屋Aという具合に仕入れ先を変えたのです。これは結構いい結果を生みました。詳しくはここでは書けませんが、実績のあるナサホームより設立間もないみずらぼの方が掛率が低いことがよくありました。

ナサホームの20年(14)

7.   梅田出店

 2010年の春ごろです。TOTOの表彰式がありました。その際にTOTOの大阪支社長が「来春、梅田の阪急百貨店の上、20階にショールームを移転します。」と発表されました。あんな梅田のど真ん中の高層階でショールームなんて成り立つのかなというのが初めの感想でしたが、たまたま阪急に知り合いがいたので興味本位に「あのビル坪単価いくらぐらいするの」と聞いてみました。すると翌日にはそのビルのリーシング担当者から電話があり合うことになりました。話を聞けば思っていたより高くはない。しかし、われわれ中小企業には大きな投資であることは間違いありません。
ただ、遡ること5年くらい前に当時、北ヤードと呼ばれていたグランフロント大阪のナレッジキャピタルゾーンに出店することを一つの夢、目標にしていました。北ヤードの開発も遅れていたのでここでブランド力のある阪急百貨店と同じビルに入るのも悪くはないかもしれません。そして阪急側から2度目の面談の依頼がありお会いしました。
その担当者はおもむろに、しかも高飛車に「社内でリーシング会議がございまして今回のナサホームさんからのお申し出をお受けすることに決定しました。
???条件を聞きたかっただけで正式に出店依頼をしたつもりもないし、出店するにしてもうちからの申し出をお受けすることになったって言われても意味がわかりません。怪訝な顔をしているとその担当者は、「いや、入りたい会社はいくらでもあるのですよ。業種、業態、経営状況によってほとんどこちらからお断りしているのです。要するにもっと喜べと言いたげでした。阪急のプライドと言うのでしょうか、私にはよくわかりませんでした。細かい条件提示もありましたが、ほとんど値引き交渉にも応じず、まるで大名商売のようでした。さんざん悩んだ挙句、出店の話を断りました。やはり我々中小企業には過剰投資と考えました。
そしてやがて「梅田阪急ビルオフィスタワー」は開業し遠くを車で走っていても上層階に夜、電気がついているのが見えます。やはり私自身内心では未練があったのでしょう。もしかしたら自分の名誉欲の為に出店を考えているのじゃないだろうかと自問自答もしました。再び出店することのメリット・デメリット、出店を見送ることによるメリット・デメリットを洗い出し熟考を重ねていました。
そんな折、また阪急の担当者からエレベーターホールに面したいい場所をお貸しできますとの連絡を受けました。尚且つ条件的にも多少譲歩してくれていました。もうそれですんなり出店することになりました。このビルへ出店したことはブランディング効果を期待した部分が一番大きいです。人材採用にも集客にもその効果を大きく発揮してくれています。ただ、ビル1階のテナント名の銘板を見るとほとんど大企業、上場企業ばかりで初めに阪急の担当者が言った意味が今になって少しわかる気がします。

ナサホームの20年(13)

4.    反省と感謝

国吉さんのCD以外にもう1つ私に大きな影響を与えたCDがあります。不動産会社の社長からもらったCDです。この社長さんご自身、バブル崩壊の影響で破産状態となり自殺を考えたこともあった方でそんな折にこのCDと出会い影響を受けたとおっしゃっています。それは八起会という倒産者の会の会長、野口誠一さんが公演されているCDでご自身の2度に亘る会社倒産の体験談が主な内容です。体験から来る実話なので迫力・説得力があり、もう宗教的な空気さえ感じます。この中で野口さんが特に強調させているのが反省と感謝。この反省と感謝の気持ちを忘れなければ会社が倒産することは無いと言い切っておられます。
人は勢いが有るときはついつい有頂天になってしまいがちです。自分には能力がある才能があると勘違いしてしまうのです。そして傲慢になる。傲慢になった人間からは反省と感謝など生まれてくる筈もありません。今日一日、自分が行った行動や言動に行き過ぎたところはなかったか?また言い足りなかったことはなかったか?常に自問自答して反省することが必要です。そしてその結果として従業員、お客様、協力業者、自分に、会社に関わった全ての人に感謝する気持ちを忘れてはなりません。このCDは自分への戒めの意味も込めてもう軽く100回以上は聞いています。

5.    最近思うこと(2010年7月当時)

最近思うことに『会社は何のためにあるか?』と言うのがあります。売上も今年(2010年12月期)24億円くらいにはなりますが、このことが常に頭をよぎります。
今後のこの会社をどの方向へ進めて行くかはすごく重大な判断です。会社は

利益を出さなければならない?
それは会社が継続する為に必要で利益を出し納税することが社会貢献でもある。会社が継続しない、即ち倒産するとスタッフや協力業者は仕事を失い、経済的損失を負う。また工事中のお客様は勿論の事、過去に工事をしてくださったお客様にもメンテが出来なくなり多大な迷惑をかける事になる。

では利益を出しながらどんな会社であればいい?
スタッフの経済的安定は勿論の事であるがそれ以外にもスタッフ各々が自分の能力を発揮できる場であってほしい。各々がやりたい仕事、得意な仕事に取り組みそれぞれの能力を開花させ、そして互いに認め合い賞賛しあい輝きあう企業風土を築き上げたい。
こんな企業風土が築けたら、それに関わるお客様も協力業者もこの上なく幸せになるであろう。

これからの私の仕事の中で一番大きいものは、この企業風土をつくることだと思います。

6.テレビCM

あるとき、チラシの反響でお客を紹介したいから社長に来てもらってくれという依頼がありました。会社の女性社長のようでした。どんな話かと思い営業の中村君と一緒に福島区の事務所へ行きました。
第一印象、「すっげえ、おばさん」
色が黒く、大きな体でスタッフに怒鳴り散らしながらベルサイユ宮殿のような調度品の社長室で待っておられました。部屋にはタイガー・ウッズと2ショットの写真などがところ狭しと飾ってあります。
工事の内容はご自身所有マンションのエントランス工事とそこの1階に入るテナント(学習塾)の工事でした。
ただその時、ご自身の会社がCM関係の仕事をされているということで過去に製作されたCMをいくつか見せられました。いずれも普段よく見るCMでした。その後、いろいろあったのですが要はお客さんを紹介するからテレビCMをナサホームでやってみては?ということです。とにかくやり手の女性特有の強引さのあるトークです。どちらかと言えば、嫌いではないですが苦手なタイプです。なかば押し切られるような形でテレビCMをすることになりました。
先ず、CMに出てもらう役者さんの選定ですが勝手にやってくれるのかと思いきやオーディションをするとのことです。オーディション会場へ行くといろいろなタレント事務所から沢山の女の子たちが来ています。数人ずつ面接のようなことをやるのですが、毎回「この方がCMをする会社の社長さんです。」と女社長から紹介され、その度にAKBみたいな女の子たちが黄色い声で「よろしくお願いします。」と返ってきます。不覚にもなんかだんだんいい気持になってきます。そうさせるのがその女社長の作戦なのでしょうが…。
そんなこんなで役者が決まり弊社逆瀬川店で撮影しコマーシャルがテレビで流れるようになりました。土曜日の午前中に読売テレビで2回流れます。それで毎月、数百万かかります。
このCMの効果として同窓会やら家の近所の人から「CM見てるよ、すごいね。」と言われたりして何となくこれまた不覚にも気持ちよくなってきます。また女社長の紹介で郷ひろみとゴルフが出来たり、元宝塚の女役の美女と寿司を食べに行けたりと、別世界の気持ちよさを味わわせてもらいました。ただ、販促には直接つながらず、そういう人たちとの付き合いで自分を勘違いするようになっては本末転倒です。危険な香りを感じます。約1年でCMは打ち切りその女社長との付き合いもやめました。

ナサホームの20年(12)

第3部

1. 組織づくりと仕組みづくり

創業10年を超えてからの3年間はそれまでの10年間と明らかに違っています。売上の10億円越えも達成しましたし新卒採用も始めました。社員数も急激に増え、ある意味全く違う会社になってきたといえます。一言で言えば「組織づくりの3年」と言えると思います。
ただ良かった点として人が増えいろいろな問題が起こってからその対処としていろいろ手を打ったのではなく意識せずに自然と事前準備が出来てきたことでしょう。そのため多くの異業種も含めた他社が『10億円の壁』といって10億円付近で足踏みすることが多い中で全くその壁を意識することなくブレークスルーできました。

2. 理念実践型経営の真髄

自然と組織づくりの事前準備が出来た理由に、あるCDとの出会いがあったことは大きいと思います。
SMBCコンサルティングから毎月送られてくる日経ベンチャー経営者クラブのCDでブリングアップ社長の国吉拡氏の「理念実践型経営の真髄」と言う講演が収められていました。このCDを聞き深くこの考え方に傾倒して行き、それがその後、大きくなっていく組織を束ねていける結果につながったと言えます。
そのCD自体は毎日の通勤の車の中で50回以上は聞いたでしょう。また国吉拡氏の講演も数回聴きに行きました。
内容はお金や物、待遇でスタッフを束ねるのではなく考え方、理念で人を束ねると言うものです。すなわち考え方や価値観を共有し全社員が基本的に同じ方向で考え行動することが必要であると言う考え方です。当時まだ組織運営で困っていたと言う状態ではなかったのですが、この先必ずそれが問題になることは判っていましたので本当に参考になりました。
もちろん自分ひとりで考えるだけではなく弊社の理念である「ナサホームに関わった全ての人を幸せにする」という考えを社員に定着させなければなりません。これに特別な何かを実施したわけではありませんが会議の場や事ある毎に価値観を共有できるように話したつもりです。これも時間は掛かりましたしまだその道半ばでありますが徐々に徐々に浸透してきていると思います。この考え方への気づきが無ければ今の弊社は無かったと思えるほど重要なことでした。

3.淘汰の時代

平成18年の終わり頃からそれまで弊社より先行していた同業者の倒産や大幅な規模縮小が相次ぎました。
先ず神戸の(仮称)ループ。早い段階からチラシ反響型営業で業績を伸ばし(仮称)大滝社長自身も(仮称)オールサポートというコンサルティング会社を立ち上げ中小リフォーム業者を元気にしたいと多くの講演をこなしておられました。私自身も何回か出席して多くの出会いや勉強の場を提供していただきました。しかし他業者を元気にさせるどころかその足元で自社が崩壊してしまいました。これと同時期に大阪の(仮称)システムコンストラクションも事実上の廃業となり、また同じ大阪の(仮称)ダイキョウホームも店舗の閉鎖、規模縮小に追い込まれました。
去年はなんと言っても横浜の(仮称)リモアの倒産が衝撃的でした。リモアの(仮称)西崎さんとは船井総研の坂本氏を通じて知り合い7~8年前からの友人で弊社より先行していたのでよく仕事を教えていただいていました。しかし西崎さんも途中からリフォーム業よりオーダーメイドキッチンのメーカーとしての運営に注力されていました。
これらの企業の倒産や規模縮小の原因には共通する部分があって経営者自身がリフォーム業より別の業態に力を入れだしたことが上げられます。
大滝さんも西崎さんも業界では目立った存在で同業者からある意味あこがれられ目標とされる存在でした。またお二人ともお話が上手で多くのセミナーを主宰されていました。このことも地味な本業が疎かになった理由のひとつであると思います。
何れにせよ友人である西崎さんがこの業界から退場されたことは寂しい限りです。

ナサホームの20年(11)

14.  ここから順調に

 このころから経営状態は順調に推移していきました。「なさ犬くん」の効果が徐々に出て完工粗利が落ちてしまう幅がだいぶ小さくなってきてお金も少しずつ残るようになりました。また、その頃入社してきた安部君の効果も大きかったと思います。それまでは私自身もそうですし、他の社員も建設業の経験はあってもリフォームの経験者はいませんでした。彼の入社の影響でリフォーム会社独特の工事のやり方を取り入れ、それに慣れた職人の採用が出来たことで粗利の下落を小さく抑えることが出来たのは確かです。
そして、茨木店の出店を決めました。当時、私の出店の基準のひとつには、「以前勤めていた日住サービスの業績のいい店舗の近く」というのがあります。不動産の売買仲介の好調な地域は富裕層が多く仕事がやり易いだろうということです。茨木には狭い町に日住サービスが2店舗も出店しておりどちらの店も成績好調でした。私は茨木に土地勘はありませんでしたが迷わず決めました。
店舗探しのお話ですが後に出店した高槻店もそうですがすぐに店舗を見つけてしまいます。茨木も高槻も探し始めて一日で見つけてしまいました。この部分は元不動産屋の効用でしょうか。いずれもいい立地だと思います。
初めての来店型店舗としてオープンした茨木店は当時としては大成功でした。土日には大型工事のお客さんがふらっと来店されます。同じ時間に3組くらい来店されることも時々あります。また、見積提出や仕様決めもこちらから出向くのではなくご来店いただくことが多くなり営業マンの負担も減りました。

15. おいしくないラーメン屋の話

 私の頭の中にはもちろん経営の安定、資金繰り等々、経営者としての考え、心配がありますが、その根底に意は顧客満足、即ちお客様に喜んでもらってその対価を得るというのが基本中の基本としてありました。まだ社員も20人くらいでしたのでその考え方はスタッフに共有されているものと何の疑問も持ちませんでした。
ただ、あるとき当時都島店の店長だった(仮称)宇部とその部下の渡辺があらたまって私のところに相談があると言ってきました。内容は次のようなものでした。
変なお客さんがいる。工事が終わったと同時に入金は全額されているが、後から再三手直しを言ってくる。都度、手直しを入れ部屋はとてもきれいです。それにもかかわらずいろいろなところに因縁をつけて金を返せと強硬に言ってくる。自分ではどうにもならないと言うと社長を呼べと言っている。
そして私が行くことになりました。事前に電話でお客さんと話した内容ではクロスの仕上がりがご不満のようでしたのでクロス屋の親方と一緒に行きました。部屋に入った瞬間は明るくてすごく綺麗でした。しかし細かいところを見ると唖然としました。リビングドアの塗装をしているのですが私は心の中で「小学生の工作以下」と恥ずかしくなりました。お客はかなり感情的になっておられ、「このドア見てみろ、小学生の工作以下やで、ありえへん」とおっしゃいました。私の思ったのと全く同じ感想。恥ずかしい。そのほかもいろいろ稚拙な内容の不備があり、すぐ全てやり直すことを申し出しました。ただ、お客様は、「何度も手直ししてもう疲れました。お宅のところの職人さんにはもう入ってほしくない。よその業者でやり直すのでお金を返してほしい。」とのことです。
それまで私はスタッフに「クレームが出ても減額には応じるな。たとえ損が出てもご納得いただくまでやり直せ」と指示していましたが、工事に入ってほしくないとまで言われるとどうしようもありません。最終的に30万の返金でお詫びをして解決としました。ほんとうに辛い決断でしたが・・・。
翌日、宇部に報告をしました。その時彼の言った言葉に唖然としました。「もちろん社長が判断されたことですから、僕がどうこう言うことでもありませんが、もしラーメン屋に入って、おいしくないからと言ってお金を払わなければそれは無銭飲食で捕まりますよ。」
ナサホームの工事がおいしくないラーメン屋であっていいはずもなく、店長の立場の者があの仕上がりで現場は綺麗に完成していますと私に報告してくる。私の知らない間に、有ってはならない感覚がスタッフの中に芽生えていたのでした。そこから会社として工事品質重視にかじ舵を切っていくきっかけとなりました。

ナサホームの20年(10)

 11.    デザインファクトリー

 あるとき船井総研の坂本氏から横浜のリフォーム会社へ店舗視察のお誘いがありました。行ってみると他に7社ほどの経営者が来ています。詳しくは書きませんがこの集まりはデザインファクトリーの立ち上げ説明会の意味があったのです。デザインファクトリーとは(仮称)リモアの(仮称)西崎さんが主宰しデザインキッチンのメーカーとして会員企業に販売するボランタリーチェーンのようなものです。
これ以降、年に数回デザインファクトリー情報交換会ということで全国のリフォーム会社の経営者が集まる機会が出来たわけですが、この集まりはすばらしい。デザインファクトリーの初期メンバー9社の中でうちが一番小さな規模でしたから先行する経営者の成功談、失敗談が非常に参考になりました。また失敗談でも全てそれにどう対処してどうなったかといった答えも皆さん持っておられます。本当に同じ業種で会社を経営していると、それぞれの成長の過程で全く同じ問題がほぼ順番どおりに起こってきます。地域差もありますが見事なほどほぼ同じです。この集まりで相談し学べたことは何にも替えがたい財産になりました。
ただデザインファクトリーの加盟金30万円が当時の弊社にはかなり負担でした。
僅か30万でしたが・・・。

12. 東原社長と伴さんとの出会い

 資金ショートこそしないものの相変わらず粗利のダウンは続きました。いつまでもこのままでは会社が持たないと思案していたとき、船井総研の坂本氏より面白いソフトがあるので金沢のハウジングスタッフへ行かないかとの誘いがありました。「面白いソフトがあっても買う金ない…」と思いつつちょっと気分を変えようか位の気持ちで金沢へ行きました。ハウジングスタッフの東原社長は初めに船井総研のセミナーへ言ったときの講演をしていた人なので話してみたい気持ちもありました。
先ずハウジングスタッフの本社で横浜から同じように来られているリモアの西崎社長(当時)と一緒にソフト開発の伴さんからこのソフトの説明を受けました。確かに良さそうなソフトでしたがこの時点ではまだいくら良さそうでも先立つものの心配が一番でした。そう、常に頭の中には「月末の支払いどうしょう」があったのです。
そしてその日の夜、東原社長、西崎社長、坂本氏と4人でお寿司を食べに行きました。このときこの席での東原社長のお話がナサホームの運命を変えました。東原社長の建設業運営の基本的な考え方、職人や問屋との関係を中心にここで文章では書き表せないくらい中身の濃いお話でした。昼間にソフトの説明だけでは判らなかったのですが、東原社長の経営哲学があのソフトに凝縮されていたのです。
あの日、一夜にして自分が変われたのが判りました。私ももう当時40才を超えていましたがそんな歳になってもあんなに衝撃的なことがあるのです。
余談ですがあの日に食べたお寿司は今まで食べたことの無い位おいしいお寿司でした。2003年の夏のことです。

13. なさ犬くん導入

 ハウジングスタッフのソフトを導入し「なさ犬くん」と名付けました。その後も幾度となくバージョンアップしていき当時ナサホームの業務の中心に在ったソフトです。あの夜、東原さんから受継がれた経営哲学を自分なりにアレンジしてナサホームに落とし込んだものが「なさ犬くん」です。もちろんいくらいいソフトを導入してもその運用がうまくいかなければ意味を成しません。この「なさ犬くん」も導入当初はすぐにうまく稼動したわけではありません。発注書を事前に切るように取り決めしてもこの発注書制度を完全に無視している社員が多かったように思います。ただ、柳、林あたりは比較的すぐこの制度をうまく利用し始めたと思います。特に柳は見かけによらず制度の変更や新しい制度に柔軟に対応していました。結果として「なさ犬くん」をうまく利用した人の営業成績や給料が飛躍的に上がり、このシステムや決め事を無視した人は以前より成績も下がり収入が減る結果になりました。

ナサホームの20年(9)

 8.    いよいよ本格始動

   2001年の暮れは船井総研との打合せでアプローチブックや原価表を作る資料の提出等で忙しくしていました。
2002年の正月、いよいよコンサルを入れての本格始動のスタートです。チラシも作りました。以前自分で作ったチラシに比べて格段にいいチラシが出来ました。船井総研のリフォーム業者への支援の前提は高反響のチラシにあります。これが当たらないとあとのいろいろなノウハウが全て絵に書いた餅になってしまいます。
正月一発目のチラシが入ったとき驚きました。同じようなチラシで今まで入ったことのない業者のチラシが同じ日に何枚も入っています。全て船井流のチラシです。船井総研は同一地域で何社ものリフォーム業者と契約をしていたのです。「こんなん有りかよ!」と正直思いましたが、船井総研にもたくさんのコンサルがいますのでその辺の交通整理が出来ていなかったようです。というか交通整理する気も無かったのでしょう。しかし兎にも角にもやらないとしようがありません。チラシを入れ続けましたが反響は余りありません。レスポンス3000分の1という触れ込みのチラシでしたが6000分の1くらいだったと思います。反響がなければ営業の仕事もないのでそのころ初村さんや大野君の仕事は朝から12時までチラシ撒き昼食をはさんで1時から5時までチラシ撒きといった状態でした。スタートから思いっきり滑ったのでした。

9.    えらいことがおこった

   そんな中でも、インターネットからの問合せで今もたくさんのリピートを
いただく阿倍野区の獣医さんから総額2000万を超える受注を頂いたりしながら、食つないでいました。柳と岡田が入社したのはそのころでした。今でこそ役員にまでなっている柳ですが、入社したころは現場監督の兄ちゃんといった感じで、お客さんのところへ電話していても「ほだら、いまからいきますわぁ」とガラガラ声で言う始末です。「『ほだら』はないやろ!!『それでは今からお伺いします』やろ!!!」とよく基本的なことから注意したものです。ただ彼の場合、適応能力はあったので3週間ぐらいで人並みの営業マンくらいの言葉遣いはできるようになりました。
そんな折、都島区のある新聞販売店から電話がかかってきました。「御宅とこ、アドサービスにチラシ頼んではるでしょう。どんな支払い方してはるのん?アドサービスから3ヶ月支払いありませんねん。」アドサービスはチラシを各新聞販売店に配る折込屋と呼ばれる業者です。すぐに私は「もしかして」と思いました。「販売店に支払いが滞るくらいお金に困った折込屋が次にすることはチラシを間引くことしかない!」と。それでみんなで手分けして各新聞販売店に電話で一斉にナサホームのチラシが何部持ち込まれているのか確認をしました。その結果は、こちらが依頼していた部数の約6割しか持ち込まれていません。4割は間引かれて捨てられていたのです。えらいことです。詐欺行為です。社員の中には告訴しようと言って色めき出すものもいました。しかし実は私は嬉しくてしようがなかったのです。いままで6000分の1のチラシ反響が折込屋を替えるだけで3600分の1にアップすることが確実になったわけです。今まで、チラシのレスポンスをあげる為にあれこれ考えていたことが解決したわけです。その業者にも多少の弁済はしてもらいましたが、訴訟を起こすこともなく不問にしました。お人好しかも知れませんが、このプラス思考が私の唯一の長所かもしれません。

10.  なぜかお金が残らない

   チラシのレスポンスも上がり、少しずつ受注も増えてきました。しかし、貯金通帳の残高は減るばかりです。みんな大体3割くらいの粗利で受注してきます。毎月の経費を考えると黒字のはずなのですが赤字なのです。受注時の粗利は30%でも完工すると10%近くダウンするのが原因でした。受注は毎月ある程度コンスタントにあがるのですが完工は工事の遅れなどである月に固まったりするものでいったいどれくらい下がっているのかということに気が付くまでに結構時間がかかってしまいました。経営者としては失格です。何か対策を講じたとしてもその結果がどの程度出ているかは半年くらい経たないと判りません。
ここから長く苦しい時期に入ってしまいました。いろいろ対策を講じてみましたがなかなかうまくいきません。急な変更は社員も付いてきにくかったとおもいます。新しい手を打とうとしても初村さんあたりは「ふんっ」とそっぽを向く始末です。やがて毎月の支払いにも苦労するようになりました。毎月数百万円足りません。先ず自分の貯金を全ておろし、足らない部分をクレジットカードやら何やらでキャッシングをしてしのいでいました。信用金庫でも毎月のように手形貸し付けをお願いしました。
毎月月末の2時ごろまで金策に走り回っていました。当時の事務の高橋さんには大変迷惑をかけました。外から電話で「いま200万入金したから○○と△△へ取敢えず振込して!!」と言った内容の電話を一日に2~3回していましたから。そのうちついに万策尽きてあと50万が払えない月がありました。そのときは都島店の近くの村山材木店さんに5日間支払いを猶予してもらえるように頭を下げに行きました。そのとき社長は病床に臥しておられたのですが奥様が「いつでもいいよ」と快く受けてくださいました。今でも感謝しています。後にも先にも支払いが遅れたのはこのときだけです。
ただ、この資金難のときでも会社をつくって2年目の頃に比べると変に腹が据わって悲壮感はありませんでした。あの2年目の時の悲壮感、絶望感が経営者としての度胸を鍛えてくれたのかもしれません。

ナサホームの20年(8)

5.    リフォーム業へ進出

   苦しみながらも徐々に業績は回復してきました。初めての社員、小田君(仮称)が入社してきたのはその頃でした。
会社設立の時からやりたいと思っていたリフォーム業ですが、なかなか不動産業から手が離せずにそのままになっていました。しかし、やっと2000年にリフォーム業へ進出しました。進出できた理由は小田君がそれなりに数字をあげられるようになり私自身が不動産仲介から一歩引く余裕が生まれたことが一番大きいと思います。
ただリフォームを始めるといっても私には建築の知識がほとんどありません。学生時代は土木学科でゼネコンでも宅地造成ばかりでした。不動産仲介をしていたときは仲介のお客さんでリフォームされる方がいらっしゃるとインテリアサイキ(現 サイキ)という業者に紹介していました。ただ、そのときの見積書を多数残していたので参考にさせてもらいました。そしてその業者の営業マンのクロスの測り方を見て覚えました。それで初めは自社で仲介したお客さんの内装から始めることにしました。リフォーム業というより内装屋さんという感覚です。ただ始めるといっても職人さんに知り合いが全くありません。そこで約1000世帯ある京橋グリーンハイツの中をうろうろして内装工事をしている部屋を見つけては職人さんに声をかけました。「うち不動産屋やねんけど、これからリフォームもやるからクロス貼ってほしいねんけど…。」こんなことで取敢えずリフォーム業をスタートさせました。しかし設備の知識が全く無い。また設備を仕入れるルートも全く知らない状態です。お客さんからもキッチン交換を頼まれてどうするべきか考えていたときにたまたま知合いの司法書士から建築会社が倒産してしょうがなく2人で独立した人がいるから下請けに使ってやってほしいと紹介されました。それが南さんという人と後からいろいろ問題を起こしてくれた山田(仮称)でした。ただ建築会社に長く勤めていた二人ですので問屋のルートや設備の職人の手配には役に立ってくれました。
その後暫くして南、山田の二人がお金でもめて喧嘩別れになり山田が途方にくれていたのでナサホームで現場監督をしてもらうことになりました。確かに当時は私の建築知識の乏しさをよく補ってくれたと思います。

6.     リフォーム事業の拡大へ

  実際に自分でわからないなりにリフォームの営業をしていて先ず一番に感じたことはその面白さです。何歳になっても新しいことをどんどん覚えるのは楽しくて仕方がありませんでした。また物創りの楽しさも充分に味わえます。二番目に感じたことは営業が楽ということでした。数千万の不動産を売るよりもどんどん決まってすごく楽です。不動産屋時代に培った営業力をそのまま持ち込むとほんとに面白いほど契約できました。自分でも天職だと思っていました。
事業の拡大意欲は十分ありましたのでリフォームの社員を入れ始めることにしました。当時はまだB-ingなどの雑誌に載せる資金的な余裕も無いので職安に求人を出しました。初めに来たのが建築経験者で宇田(仮称)という男。2~3ヶ月いましたが毎日、朝出社してすぐにチラシを撒きに行くと偽り水商売勤めの彼女のところへ昼寝をしに行っていたのがわかったので、すぐにやめてもらいました。次に来たのが初村(仮称)さんでした。今と違ってもう20キロ近く細く、育ちのよさそうな娘さんというのが始めの印象でした。建材メーカーでOLをしていたとのことでしたが営業経験がなく本人も初めはそれが不安だったようです。面接で「私に営業が出来るでしょうか?」と不安げに尋ねてきたのが昨日のことのようです。その後大野君も入ってきて私も含めて3人の体制で細々リフォーム業者をやっていました。でも当時は初村さんも大野君もチラシの手配りと廃材処分の毎日でした。

7.  船井総研との出会い

 ある日、夜遅くインターネットでリフォームのことを調べていたときのこと。船井総合研究所という経営コンサルタントの五十棲さんという人のサイトに出会いました。「売り上げ5000万のリフォーム会社が3年で8億」とか「会社立ち上げから2年で5億円を達成」とかすごい実例がたくさん載っていました。あまりの衝撃に12時を回るまで集中して観ていました。それから五十棲さんの「リフォーム事業 儲け方の極意」というわかりやすい題名のメールマガジンを申し込みバックナンバーも含めて読み漁りました。そして五十棲さんの「売上2億円の会社を10億円にする方法」という題名の本を買い一晩で読みきりました。とにかくすごい。オクタ、ウェーブ、アップリフォームジャパン、スペースアップなどが事例として取り上げられていました。また内容もわかりやすい。例えば『会社を大きくしたければ人をたくさん採用しなさい』という章があります。なにもノウハウが無いのに人をたくさん採用すればすぐ倒産するのに決まっています。ただ中を読んでいくと「なるほど」と納得できるように数値計算を交えて説明されています。
この本を見てからこの本のことが頭から離れません。でも「日本最大の経営コンサル会社がうちのコンサルなどしないだろう」との思いもありました。そんなときに『地域一番店セミナー リフォーム事業儲け方の極意』という如何にもそそる題名のセミナーが船井総研の大阪本社で開催されるのを知り参加することにしました。ここで講師をしていたのが後々お世話になることになる坂本氏、そして坂本氏の顧問先のハウジングスタッフの東原社長の成功体験談でした。船井総研のうまいところは自社のお客を上手に宣伝に利用するところです。経営コンサルの言うことだけであれば眉唾にも思えるのですが実際の経営者を引っ張り出すことで信憑性は一気に高まります。「小さい会社のコンサルもするみたいだけれど高いお金が必要なんだろうなあ」が正直な感想でした。なにせ売り上げ8000万、貯金通帳に大してお金もありませんでしたから。
セミナーから二日後、講師の坂本氏から電話がありました。「いま福岡の会社に来ているのですが明日は大阪に戻ります。一度お話しませんか?」話だけならと思い約束しました。その夜考えました。お金のことだけです。「毎月のフィーが30万以内ならお願いしよう。」と決めました。
翌日、当時中津にあった船井総研の広い応接室。坂本氏が「経営コンサルを入れるというのは時間を買うことです。」とかなんとかいろいろ説明してくれました。でも「何か船井総研がよさそう」と言うのはメルマガを読んで本も読んでセミナーも聞いて判っています。問題は値段だけです。話の早い段階で単刀直入に聞きました。「毎月いくらくらい必要ですか。」坂本氏は少し嫌な顔をしながら「本当はすぐに値段は言わないのですが言いますと初めに着手する際に経営戦略書を作りますので500万、それから毎月は25万です。」なんと想定外の価格です。月々25万はいいのですが、初めに着手金500万とは…。一瞬の間があくと坂本氏は「うちは物売りでもなんでもないので価格を下げるとかどうとかはしません。伸びる見込みのある会社とだけお付き合いしたい。」こちらの動揺を見透かして高飛車な態度でした。しかしこれがやはり経営コンサルのクロージングなのです。最高の営業トークです。私は前夜に決めていた「30万以内」に収まっていたので「契約するのはどうしたらいいんですか?」とすぐ決断しました。坂本氏はそれでも少し横柄な態度で契約書類等の手続きをしました。後から聞いた話では内心では一発で契約してくれることに驚いて嬉しかったそうです。しかしそんな本心はかけらも見せず契約手続きは終了しました。2001年の11月の終わり頃のことでした。