ナサホームの20年(1)

私はブログを書くのが不精なもので
最近では1年に1~3件の投稿しかない現状です。
しかし多少、情報発信することも必要かなと思い
ナサホームの20年史をアップすることにしました。
これは10年位前から会社の歴史を書き綴っていたもので
社員には数年前に途中まで開示していましたが
外部に出すのは初めてです。
もともとは創業からの10年を書いたのですが
その後日経新聞の「私の履歴書」に倣って幼少期の出来事を書き加えました。

ちょっと恥ずかしいですが不定期に一定量毎にアップしていきますので
退屈しのぎにでも読んでみてください。
誤字、当て字、拙い文章はご勘弁ください。
(なおオリジナルはすべて実名で書いていますが
今回は仮称として多くは記しています。)

 

  ナサホームの20年

平成18年1月

加筆・訂正  平成20年10月

加筆・訂正  平成22年7月

加筆・訂正  平成25年10月

加筆・訂正  平成29年6月

加筆・訂正  平成30年8月

 

第1部

はじめに

ナサホームが出来て20年を超えました。そして多くの人が入社してくるようになって社員数も200名を超えるようになりました。
その時々に入社してくる人たちの目にはこの会社はどのように映っているのでしょうか。もちろん人それぞれの感性で受け止めてもらっていいのですが、やはり過去に何があって現在があるのか。何を考えてこういう形になっているのかは知ってもらっていた方がいいと思います。即ち、過去の多くの失敗があって現在があることを知ってもらい、現在の多くの失敗が将来の成功につながる事を肌で感じてもらいたい。そのために小さな会社の短い歴史を書き綴ってみることにしました。日経新聞連載の「私の履歴書」に倣いまず私の生い立ちから書いてみます。

  1. 生立ち
    昭和36年1月31日、鉄工所を営む父初男と母悦子との間に男ばかり3人兄弟の3男として生まれました。兄は11歳と8歳年上でだいぶ遅れて生まれてきた子供でした。父親は大正生まれで今の都島工業高校を出て、機械の設計技師として就職したようです。その後招集され九七式重爆撃機なるものの搭乗員となり主に東南アジアを爆撃していたようです。その際、英国の戦闘機スピットファイアーの編隊と遭遇し空中戦を演じ、父は敵機一機を撃墜するも肩に貫通銃創を負い野戦病院を経てそのまま終戦を待たずに除隊となったようです。その後機械のブローカーを経て江川鉄工所を設立、現在のパナソニックと共同で積層乾電池の製造装置の特許を取得、後にパナソニックと袂を分かち日立マクセルと組んで海外も含めその製造装置を製造販売していたようです。その頃、恐らく父にとっての絶頂期であったと思いますが父が42歳の時に私が誕生しました。ですから上に書いたことはすべて物心をついてから父親から聞いた話です。特に戦争の話は勇ましく英雄気取りで話していたような気がします。
    私の誕生前後数年間は積層乾電池の仕事が順調で従業員も100名くらいいたと聞いています。時々会社の人が家に来て食事をしていたのを覚えています。後に母親に聞いたところによると当時発表されていた生野区の長者番付にも載っていたそうです。ただそうした成金にありがちな傲慢さがあり母を苦しめていたようでもあります。
    私が子供の頃のことを覚えているのは幼稚園に入ってからくらいですがその当時にいきなり強烈な記憶が植付けられました。小学校入学前、真新しい学習机とランドセルがあったので恐らく2月か3月くらいでしょうか、家に裁判所の執行官が2名でやってきました。『差押 本物件は差押物件につき無断で処分することを禁ず』と書かれた白い紙を家具や電化製品にベタベタと貼っていきました。なぜその貼り紙の内容を覚えているかといいますとかなりの期間その貼り紙が貼ったままになっていたのでその紙を毎日読みながら育ったようなものだからです。当時、父が居留守を使い母が電話でウソを言う。父が電話で誰かを怒鳴りつけていたり夫婦げんかも日常茶飯事でした。かの有名なちゃぶ台返しも我家では見慣れた光景でした。
  2. 少年期
    小学校の低学年くらいでしょうか、父によく近所の大衆居酒屋に連れていかれました。会社の倒産後、父は一人で鉄工所を営み機械部品の加工などをやっていました。それでも取引先などからは当然ですが社長と呼ばれていました。またどこの居酒屋へ行っても料理を出される際に父は「シャチョウ」とか「タイショウ」と呼ばれておりました。私はずっとどこも父親の知り合いだと思っていましたが後で考えるとそれなりの風体をした人すべてに「シャチョウ」「タイショウ」と呼んでいたのです。決して「社長」「大将」ではなくカタカナのニュアンスです。それはもしかしたら当時の大阪の庶民文化であったかもしれません。
    学校ではそれほど勉強ができるわけでもなく比較的目立たない子供であったと思います。小学校1年から5年くらいまでは通知簿もほとんど5段階の3でした。上の兄はオール5ばかりでしたし次男もそれに準じるくらいの成績でしたから自分だけ出来が悪いと諦めていました。また家計的にも恵まれておらず欲しいものがあっても「うち貧乏やから辛抱しい」と母に数百回となく言われて育ちました。やがて子供心に「貧乏いややなあ、おれ絶対金持ちになるねん」と思うようになっていました。恐らく8~9歳の頃。これが何となく、ぼんやりと起業を夢見るきっかけになったことは確かです。でもこれといった自信も取柄もなく相変わらず目立たない小学生でした。スポーツも特別得意なわけでもありませんでした。
    小学校6年の時に一つの転機が訪れました。当時の担任の山内先生(仮称)があるとき算数の成績順に席替えをさせたのです。クラス40人、1番から40番まで成績順です。今ならモンスターペアレントからの突き上げで大変なことになっていたことでしょう。しかし私はなんと2番だったのです。自分でも何の自信もやる気もなかった時ですが、これで私の競争心に火が付きました。勉強が楽しくなり学校が楽しくなり次の席替えでは1番になりました。山内先生が私のことを意図してなされたことかどうかはわかりませんが今度同窓会があったら少しお話を聞いてみようと思います。
    中学校に入ってもすべてに前向きに取り組めるようになりました。また中学校では中間テスト、期末テストというのがあり都度席次が出るというのが励みになりました。中学入学後、初めの中間試験で父とちょっとした賭けをしました。「240人中50番以内になったらなんか買ったる」といいます。私は勉強部屋の畳が擦り切れてボロボロでしたので「畳替えて」といいそれが賞品のようになりました。父は試験前にテレビを見ていると笑いながら「畳がほしかったら勉強せい」といったのを覚えています。試験が終わって結果は13番、当然畳を替えてもらえると思いきや「金ない」の一言。小学校の頃からの母親の「うち貧乏やから辛抱しい」と同じです。何度も抗議しましたが「金ないねんや」の一点張り。毎晩、晩酌しながら言うもんですから子供心に卑怯な親父だと思い失望しました。自分が親なら晩酌をやめてでも息子との約束は守るのにと思いました。
    一方この頃にはかなりはっきりと将来起業することを意識していました。小学校からの同級生で山本君(仮称)というのがいました。私より成績が少しだけできて同じハンドボール部に入っていましたがやはり私より少しだけ上手でした。また休み時間を見ているといつも彼の周りに数人が群がってきています。「勉強もできて人望もある。こんな奴が将来、起業しても大物になるんやろな」とある種、嫉妬の目で見ていました。彼とは小中高と12年間同じでしたが自分よりあらゆることで少しだけ上を行くやつがいることは本当に目の上のタンコブみたいな存在でした。

中央の一番幼いのが私です。

続く