ナサホームの20年(5)

10. 日住サービス

平成5年4月1日、心新たに日住サービスに出社しました。そうすると、いきなりこの人について説明を受けるようにと指示をされました。この人とは建設部の部長でした。すなわち建設部に配属されたわけです。独立しやすそうだから不動産の会社に入ったのに建設部に入るくらいなら鴻池組でよかった訳で出端をくじかれた感じです。
またこの建設部長の話がくだらない。朝は先ずモーニングに行こう。昼は今のイーマのあたりが当時バラックの密集地だったのですがその中に阪神百貨店の女の子がいっぱい来る通称阪神食堂と呼ばれている中華料理屋があるから毎日行くだとか3時のコーヒータイムはどこそこの喫茶店へ行けばポイントカードがあって10回行けばタダになるとか・・・・・。
とにかくくだらない話と自分の過去の自慢話をモーニング、阪神食堂、ポイントカードの喫茶店と付き合わされながら聞かされました。その夜帰宅してから考えました。不動産営業ができずこの上司の下で仕事をするなら辞めようと決心し4月2日に出社してすぐ建設部長にその話をしました。彼はあわてて社長のところへ行き、しばらくすると社長へ呼ばれ社長と専務から不動産の営業部への配属を言い渡されました。その時社長が「給料は多いほうがいいだろうから・・・・」とおっしゃりかけたのを遮って「実績のないうちはいくらでもいいです。実績あげたら沢山ください。」と言いました。社長と専務は笑いながら「よし」と言ってくれましたが、私が馬鹿でした。いくら実績を上げてもほとんど給料が上がることはありませんでした。
不動産営業マンになってとにかくガムシャラでした。数字で他と圧倒的な差をつけようと必死でした。人より多少業績が良いだけでは大した成功は期待できない。夢を実現するためには他を圧倒するくらいダントツでなければならないと考えていたのでした。また仕事も面白くて仕方がなかった。一般客への売買仲介なのですが、自分の話の組立て方一つで売主さんでも買主さんでも自分の思う方向に気持ちを持っていくことができる。思い通りにハマった時にはこれぞ仕事の醍醐味と思えました。とにかく必死で頑張りましたが、頑張りすぎて車を運転中、意識が朦朧としかけたことがありました。「過労死ってこんな感じなんかな」と思ったのを覚えています。
3か月目からはトップクラスの売上をあげ1年ほどで新大阪店の店長になりました。残念ながら私の所属した本店営業部も新大阪店も数字の上がる店ではなかったのですが、それでも新大阪店では連続店舗達成を続けました。
ただ毎月、恐怖でした。いくら売上をあげても月が替わればゼロになり、今月こそボウズになるかもしれない。ずっと成績が良かっただけに月初の2週間ほど売上があがらないだけで本社からも他店からも何かあったのかと電話がかかってくる。すごいプレッシャーですが同時にだんだん仕事にもマンネリ感を感じ始めていました。結果として退職までずっと成績は良かったです。だんだん手を抜いても成績が上がるようになってきた。手の抜きどころがわかってだんだん要領がよくなってきたのだと思います。

11.  退職へ

充実した日住サービスでの勤務でしたが退職の時が来ました。もともと独立志向のため辞める前提でしたが、直接の辞めるきっかけは少しくだらないことでした。
約3年勤めた12月、すごく売上を上げました。12月の売上成績で1月の給料に歩合がつくので1月の給料は80万円以上あるはずでした。それがなんとふたを開けると22万円です。すぐに総務部長へ電話したところ「当社は今年から部店長は年俸制になりました。このため歩合はつきません」あまりにも理不尽な話です。何の説明もないまま前月分の歩合をチャラにされたのです。それも60万位が消えたのです。総務部長曰く「先に説明しなかったのは悪かったが追って説明会を開く」とのことでした。後日のその説明会でも年俸制になった経緯はよくわかりませんし自分の年俸がいくらになるのかも分かりません。ただ去年年収は確保しますとだけ繰り返していました。
去年年収を確保してくれるなら賞与は半期で100万以上あるはずです。それで夏のボーナスを楽しみにしていましたが50万くらいしかありませんでした。なぜか腹も立ちませんでしたし笑えて来ました。独立に踏み切る良いきっかけになったと思い嬉しかったことを覚えています。平成8年7月のことでした。

       続く

ナサホームの20年(4)

7.就職

昭和59年3月大学を卒業し、ゼネコンの鴻池組に入社しました。大阪が地場のゼネコンで当時売上で4~5000億、社員数も4000人位はいたと思います。ここにはもちろん建築部門もあるのですが、私は土木部門の係員として入社し、新人研修の後、宅地造成現場に配属となりました。
大型重機が走り回る工事現場、森を伐採し山を削り谷を埋め住宅地を作る仕事です。タイヤの直径が2m以上あるモータースクレーパーという重機や、運転席に上るのに梯子で上るようなブルドーザーが山を削る様は迫力満点でした。ただ、自分は子供のころから起業する目標があります。現場配属からしばらくして、ここにいては自分の夢、目標は実現できないと確信をしました。それで初めは1年か2年で辞めよう位に考えていたのですが、上司先輩に恵まれ、お世話になった上司に迷惑をかけたくなかったので現場がかわったタイミングで離職しようと考えました。ただ幸か不幸か、現場が終わっても次の現場に連れていかれてしまい、結局7年半30歳まで勤務しました。
この時も次の現場へ連れていかれかけたのでお世話になった上司に無理にお願いをして退職させてもらいました。退職の話を進める過程で色々な上司先輩、協力業者の方から引き留めていただいたり、お前は現場監督が天職だとのお言葉を頂いたりしましたがやはり子供のころからの目標のために我儘を通させていただきました。
平成3年8月 30歳での退職でした。

8.転職

平成3年8月、時はバブル経済真っ只中、と山の中の現場監督は思っていたのですが、実際にはその時点でバブルははじけていました。平成2年に株価も急落していたのでおかしいなと思っている人もいましたがまだバブルが続いていると思っている人も多かった時期でした。後から振り返ってあの頃はもうはじけていたという認識でしょう。
そんな事もわからぬまま転職活動は不動産業者に絞っていました。理由は起業がしやすそうな事。宅建の資格を取っていたこと。それとバブルがはじけていたのを知らなかったことです。
就職情報誌を頼りに3社面接に行きました。1社目は谷町の小さなビルの上層階にある小さな不動産会社でした。仕立ての良いスーツを着た体格のいい30代くらいの人2人に面接していただき、面接の最後に「内定出せますけど?」と言ってもらえましたが、正直面接の練習と言った気持ちで行っていたのではっきり返事しないまま帰ってきました。ただ、個人面接の経験が全くなかったのですごく緊張しました。(新卒時の鴻池組では広島支店面接も本社面接も集団面接でした)ただそれ以降の面接は全く緊張した記憶がないので練習にはなったのでしょう。2社目に行ったのが中央区の堺筋沿いに自社ビルを持つ開発系の不動産会社でした。ビルの1階のエントランスから見えるガラス張りのところに総務部がありそこの結構年配の総務部長が面接してくれました。
後日、その方から食事にお誘い頂きました。その時にお話いただいた内容は概ね次のようなことです。

・あなたのような学歴職歴のしっかりした人が転職するのは前職で     何か不正やミスをしたのか?
・社長はあなたのことを是非採用しろと言っているがもったいない
と思う。
・他の会社もよく見て進路は決めなさい。

結局、他社に入ることになりその会社にはその報告とお礼にお伺いしました。報告に来たことをすごく喜んでくれて激励されました。
後日、不動産業界に入ってわかりましたがその会社は反社会的勢力と関係の深い会社だったようで、その総務部長は暗に自社へ入社しないように勧めてくれていたのでした。私と息子さんの歳も近かったようで息子のように思ってくれていたのかもしれません。
そして3社目に面接に行った業務用地の仲介を専門とする会社に入社しましたが、ここはある意味反社会的勢力よりすさまじい会社でした。社長は朝から晩まで社員を罵倒し続けている。社員を辞めさせるのは社長と社長の弟の部長が連携して5分でクビ。ゼネコンから転職して大手と零細企業はこんなに違うものかと思いました。とにかく営業マンが事務所にいると腹が立つようでした。朝に訪問先へのアポイントの電話でもたついていると社長が出社してきて餌食になるのです。とにかく社長が来るまでに会社を出てアポイントは公衆電話からとる。夜は一番遅くに帰ってくる。ホワイトボードには訪問先をいっぱい書いておく。それだけでこの社長にかなり気に入ってもらっていました。単純なものです。しかし皆この単純なことができないようで普通に餌食になっていました。またよく朝の通勤中に腹痛が起こって今から帰りますと電話してくる営業マンがいました。いい大人が腹痛で会社を休むなんて最低だと思っていました。おそらくその日の仕事の関係で社長の餌食になるのを予想してズル休みをしているのだと思います。しかしある日の朝、私も仕事の関係でどんなに要領よく立ち回っても社長の餌食になりそうな日がありました。「あー、体調が悪いと言って休みたいな」そう思ってハッとしました。そこでズル休みをしたら他の連中と同じになってしまいます。
そこで考えたのがなんと、ズル休みをしなければならないくらいなら会社を辞めようということでした。もちろんそれには伏線もあり、もう何か月も会社への入金がゼロで給料の支払いも遅れがち。ややこしいところから借り入れをしているらしい。とにかく社長の頭が固く新しい業務改善をしようとせずに過去の自身の成功体験を自慢げに話しながら社員を罵倒し続ける。その状況がだいぶ前から分かっていてこの会社に未来がないことはわかっていました。ただ自分がそれまでに貰った給料分くらいはお返ししてから辞めようと思っていました。しかしこの日、気持ちが折れました。会社へ行って社長に退職を告げると涙しながら怒鳴られました。改めて本当に自分は可愛がられていたのだなと思いました。

9. 再度転職活動

突然辞めて次の日から無職となりました。当時八戸ノ里の戸建て住宅に住んでいましたので出勤しないと近所の手前微妙でした。そこで毎朝スーツを着て車で家を出、大阪市中央区の公園沿いの木陰に車を停めてそこで一日過ごしました。するとその公園の周りには朝から夕方までいろいろな会社の営業車がずっと停まっています。中には営業マンらしき人がずっと寝ています。「こいつらみんな負け犬や」などと思いながらも私も車を並べて車の中でBingやDODAなどの転職雑誌を見て履歴書を書いていたのを覚えています。
何社か履歴書を出したのですが先ず日住サービスと住友不動産販売の面接日が決まりました。そして3月31日に日住サービスへ面接に行きました。社長以下役員5人くらいの面接でしたが、経歴についてその時何を考えどう行動したか細かく質問されたのを覚えています。その日の夜、自宅に電話があり内定である旨と明日がちょうど4月1日だから明日から出社できるかとのことでした。住友はじめ他社の面接もあったのですが折角だからまあいいかと入社の承諾をして翌日より出社しました。約10日間の失業者生活でした。

続く

ナサホームの20年(3)

5.   大学時代

もともと建築科志望で受験をしていて広島大学工学部第4類へ入学しましたが、ここは建築、土木、船舶と3つの学科を4類として入学させ、入学後1年間の成績で学科を振り分けるというものでした。私は残念ながら土木学科の方へ回されることとなり、少し遠回りな人生の始まりであったと思います。中には建築会社の社長の息子もいて辞めることも考えたようでしたが結局一人も辞めた人は出ませんでした。
大学へ入学し当初、大学の学務課の斡旋で広島市南区宇品東というところの風呂はなくトイレも共同の家賃1万円のアパートに入居しました。ただあまりにもぼろぼろのアパートだったので半年くらいで中区吉島東へ引っ越しました。ここでの約1年半は比較的快適に過ごせたと思います。奨学金も貰っていましたしよくバイトもしましたが年中お金がない貧乏学生でした。バイト代が少し入ると油断してパチンコで使ってしまうような無計画なところもありました。「今日のご飯代がない」こんなピンチの時に当時横川駅の近くにあった学生相談所へ行きその日の夜のバイトを見つけては3千円くらいをもらって食いつないだりしていました。多くが百貨店の特設会場を設営などのバイトでした。また、だんだんズルさも出てきて時計やオーディオを質屋に預けたりもしていました。ある日、昼近くまで寝ていると学校の友人が訪ねてきました。何故か親切に「コーヒー入れたろか」とか世話を焼いてくれます。私はそのとき独り言で「あー金ないわー」と伸びをしていうと彼は「えっ、おれ金借りにきてん」と困った顔で言います。「しょうがないな」ということで彼を連れて質屋へ行きましたが彼の時計では質屋が引き取ってくれず仕方なしに私の時計を質草にして二人でささやかな食事をしたことを覚えています。彼は今では三井住友建設広島支店の営業部長です。大学入学後2年間は広島市内の中心部に住み、それなりの学生生活でしたが3年への進級時に大学統合移転の第一陣として工学部が東広島市西条町に移転することになっていました。今でこそ全学部が移転を済ませ緑豊かで整備された素晴らしい大学になっていますが、当時は本当に何もない山の中に工学部だけがぽつんと出来たという感じでした。当然アパート・マンションの類もまだなく、皆学生寮に申し込みますが私は抽選で漏れました。他の落選した学生はポツリポツリと出来てきた新築マンションへ住むこととなります。ただ、当時の我々の感覚ではかなり高額で私には住めませんでした。
そこで結果的に大学から5キロ以上離れた農家の納屋の2階に間借りすることになりました。家賃はそこの息子の家庭教師。風呂も母屋へ借りにいかなければならず、結構気を使う不自由な暮らしでした。
ただ、春には田植えを手伝い、梅雨時期には網戸にたくさんの蛍が集まってきます。田に水を満たせば一晩中、カエルの大合唱、夏ごろには農薬の散布をするのでバイクで通学していると風呂で頭を洗うときに独特の匂いがしました。秋には稲刈りも体験させてもらいましたし、冬には結構な積雪がありました。およそ関西で学生生活をしていたら体験できないことを体験できたと思います。

6.  大学の研究室

4年になると研究室に配属され卒論に向けた実験をする日々になりました。
研究室には交通、水理、河海、土質、構造、材料、衛生などがありましたが私は材料研究室に希望して入りました。ここに決めた理由が安易なのですが先輩からの勧誘で「他の研究室行ったらFORTRANやBASIC解らないといけないよ。材料研究室は四則計算と体力だけで大丈夫」この一言で集まった同級生が6人いました。私以外は全員広島県人。実はそれまで中四国出身者とは何故かそりが合わないと思っていました。県民性が違う云々といってやはり一匹狼的に過ごしていましたが、この研究室での1年間で本当に彼らとも打解け、今も親交が続いています。
材料研究室では朝は10時から実験が始まり実験が終わるのが9時くらいでした。毎日つなぎの作業服に着替え、コンクリートを練って供試体や梁を作り、載荷試験を行って壊す。この繰り返しです。学部生6人と院生2人の8人は昼も夜も食事を共にした1年でした。
ただ、結論だけを言いますと院生の方が修士論文提出間際の2月19日に自殺をするというショッキングな事件が起こりました。私は初めて人の生き死にかかわり、この後の自分自身の人生観に少なからず影響を受けました。その先輩も死ぬ前にいろいろな前兆がありました。それを誰も死の前兆としては気が付かなかったのですが、自分のこの後の人生で身近にもしそういう前兆を出している人がいれば必ず気づいて救ってあげなければならないと心に誓いました。

 

続く

 

ナサホームの20年(2)

3.  高校時代

高校に入ってまた山本君と同じラグビー部に入りましたがラグビー部では私の方が少しだけ優秀であったかもしれません。ただもっとすごいのがいました。谷村君。彼は勉強はあんまりできませんでしたが親分肌で周りの出来事に動じることなく、また人を引き付ける不思議な魅力がありました。ある時体育教官室に用事があっていったとき窓の外で谷村君がラグビーのパス練習をしていました。それを見ながら年配の先生が教官室にいる他の先生に向かって「あいつ大物になりそうやな」とおっしゃいました。やはり人を引き付ける魅力のある奴は年配の先生が見てもそう思うんだなと思いました。自分はどう見てもそんな大物タイプではない。でもそうすればそんな人間に近づけるのかをよく考えていました。また、当時、かなりロジカルに物事や自分のやるべき行動を考えていたように思います。理屈っぽく物事を考えることが思春期の特徴なのかもしれません。恋愛問題までも理屈で考え理屈で行動しようとしていましたが結局、欲望や本能は理屈で割り切れるものではないと結論付けました。
また、高校時代はどちらかというと一匹狼的なところがあり、自由な校風の高校でしたが何故か学校になじめませんでした。自由に浮かれて楽しそうな同級生を見ていて馬鹿じゃないかと思ったことさえあります。何か一人で勝手に尖がっていたような高校生でした。ラグビー部も途中でやめました。理由はダラダラしたかったというのが本当のところでした。授業が終わってダラダラ、ブラブラしたかった。もちろんそれを理由に先輩に辞めたいとは決して言えませんでしたが・・・。
勉強の方はというと高校入学以来ほとんど勉強をしてなかったと思います。高1時代の担任で化学の植村先生とトイレで並んで用を足していると、「君は入学時の成績は良かったんだ。期待したけど今の君はなんだ!ここまでサボっていたらもうむつかしいぞ。再起不能になるぞ」ときつい言葉をいただいたこともありました。そんな少し変わった高校生も高校2年の3学期くらいになると受験を意識して勉強をし始めました。急に勉強を始めたものの成績は一向に上がらず高3の最後の実力テストではついに540人中400番くらいのひどい成績だったことを覚えています。また私たちの世代は共通一次試験(今のセンター試験の前身)の初年度の世代でした。受験地図が大きく変わり各大学の難易度もよくわからなかったのを覚えています。現役時代広島大学工学部を受けましたがあっさり不合格となり浪人生活に入りました。

4.   予備校時代

当時の私の通っていた高校の約半数は現役で大学に入れず浪人していました。ですから浪人といってもそれほどネガティブな印象はなく、右へ倣えの感覚でした。そう思っていたのですが初めて6-3-3制の枠組みから外れたことで親へ無用の経済的負担をかけたことが心苦しく思ったのを覚えています。この心苦しさが頑張る気持ちの大きなバネになったようにも思います。この1年間は本当によく勉強しましたが、自分の限界を知ることもでき、将来に役立つ経験だったと思っています。敢えて浪人する必要はないかもしれないですが現役合格者には経験できない尊い経験ができたと思います。
当時、大阪で予備校といえばYMCA予備校が一番レベルが高いといわれていました。その中でも土佐堀校が1番でした。予備校にも受験がありYMCA予備校として受験し成績と希望順に校舎を決められていきます。私は土佐堀校に入れる成績ではありませんでしたが何故か合格しました。高校の同級生の多くは阿倍野校や堺校に振り分けられていました。巷では「YMCA土佐堀校で普通に頑張れば阪大合格間違いなし」などと言われていました。
私も単純にその気になり、また親に経済的負担をかけたことへの特別な思いもあり頑張りました。朝起きて寝るまでのうち風呂、食事、通学時間以外はほとんど勉強にあてたのを覚えています。しかし結果として飛躍的に成績が向上することはありませんでした。では何が貴重な経験となったかですが、この期間、私より多くの時間を勉強に割いた学生はいないはずで、にもかかわらず、一部の学生は成績がドンドン上がっていく。即ち限界近くまで頑張ったからこその他人の能力の優秀さと自分の能力の限界を知ることができたことです。よく当時、人を評して「○○君はやればできる人だけどまだあまり勉強してないから・・・。」などと聞くことがありました。私の場合は「とことんやったけど能力の限界もあって・・・。」とにかくとことん頑張って能力の限界を感じれたことで先ず謙虚になれました。そして努力を怠らなくなりました。その後の人生でも「人の十倍努力して人の2倍結果を出そう」と心の中で念じることが多かったです。もし予備校時代の経験がなければ「人の1.2倍努力して人の2倍の結果を出そう」と考えていたかもしれません。そして予備校1年間を皆勤で通し逆境の中で共に頑張った友人とは固い絆で結ばれました。今も付き合いの続いている人が多くいます。当時彼らと話していたことを今も思い出します。「志望校はそれぞれ京大、阪大、神戸大と別れているがすべて阪急梅田駅のホームから電車に乗ることになる。みんな大学が別れても阪急梅田駅で待ち合わせして集まろうぜ!!」
そして彼らの半分くらいは第一志望の京都大、大阪大、神戸大へ合格し、共通一次で失敗し2次の配点の高い北大に挑戦した者もいました。また一部はそれらに不合格して関関同立へ流れ、私は広島大という結果になりました。

 

続く