ナサホームの20年(6)

  第2部

  1. 会社設立まで
    子供の頃から漠然と考えていた独立のときがやってきました。なぜ子供の頃から考えていたからというと、先にも記した通り幼い頃に父親の経営する鉄工所が倒産し貧乏暮らしを余儀なくされていたので自分は失敗しない会社の経営者になることが人生の目標だったのです。
    よくいろいろな会社の創業時の話の中で創業者が「世間の人々が○○で不便をしているのを見て、日本中の人々を幸せにしようと思ってこの会社を設立しました」とか「この業界に入って業界の慣習はおかしいと強く思い、業界の悪習を正そうと自分で創業しました」と言う人がよくいます。物語としては素敵ですが恐らく後付だと思います。当時の私もそんな高尚なことは考えもせず、ただ経営者になって成功することだけが夢でした。後から私利私欲以外のいろいろな想いが集積してきてそういう素敵な物語に変化していくものだと思います。私もそうでした。
    平成8年、35歳の少し遅すぎる独立です。9月に日住サービスを辞め新会社設立準備に入りました。有限会社より株式会社の方が聞こえが良いだろうと言うだけの理由で株式会社に決めましたが資本金1000万がありません。当時貯金が400万、身内に貸していたお金を無理やり取り立てても600万。 あとは・・・・。クレジットカードで借りまくって950万円。あとの50万は当時乗っていたボロ車を現物出資としてなんとか帳尻をあわせました。
    会社設立に走り回って事務所も都島本通に借り、宅建免許もとって会社が出来ました。出来たときの感想は、昔から目標にしていた割に設立なんていとも簡単にできるんだなあと言ったところでした。しかしそこから先を考えた場合、大変です。太い人脈があるわけでもなくチラシの反響に頼るのみ。いままで大手の看板で仕事をしていたからチラシの反響も読めたけれど、さて一人でチラシを打って電話が来るかどうかは未知数です。
    1000万の資本金も不動産協会の加盟金や事務所の保証金、内装費、事務機器等で残りは200万しかありません。とりあえず国民金融公庫で1000万借りて合計1200万で営業開始です。月の経費が約100万、自分の給料はとりあえずゼロ。自分の収入は利益が出てから考えようと思っていました。しかし10ヶ月売上ゼロなら破産。チラシを打って無反応ならありえることです。 この時強く思ったことは「今まで取引先の不動産会社でアホな社長が沢山いたけどあんなアホなおっさんでも会社を何年も継続させいてる。だからある意味たいしたもんやなあ。」ということをまじめに感心していました。
    また事務所の内装工事をする際にこんなことがありました。当時まだリフォームをすぐに自社でするつもりはなかったので他業者に見積をとりました。1社はサラリーマン時代の取引業者、もう1社はチラシで見て電話した業者でした。結果は知合いの業者は220万円、チラシの業者は350万でした。チラシ業者の現調時に「失礼があったらいけませんので先に言っておきますが相見積はとりますよ。」と伝えると「うちが値段高かったら言ってください。合わせますので。」との応えでした。この時点で高くても安くてもその業者に依頼するつもりはなくなりました。後から値段を合わせたり下をくぐることは商売上とても卑怯なことだと考えたからです。コピー機をリースするときにも同じようなことがありました。これも勤めていた会社が取引していた事務機器の商社からリースすることを決めていたのですが、見積もりの際「いちいち値切るのも嫌やから最初から目いっぱい誠意のある値段出して下さいね。」と伝えておいて出た見積は5年リースで23000円でした。こんなものかと思い決めるつもりでいたのですが、オフィス家具の業者が自分のところもコピーやっているので見積もりだけでも出させてほしいといってきたので見積もりを出してもらいました。なんとほぼ同機能のコピー機が同じ5年リースで12000円。先の業者に断りを入れると「すみません、うちも頑張って11500円まで下げさせていただきます。」「最初の見積はなんやってん!」結局一社目はこちらが相場を知らないと思いだましにかかっていたのでした。しかも業界大手の〇塚商会ですから当初信用したのも無理はありません。「世の中にはお客をだましたり変に駆引きしたりでうごめいている輩がうようよいる。誠実に仕事をこなせば時間はかかっても必ずお客さんからご支持がもらえる。」と強く思いました。このことはその後の会社経営の中で基本的な考え方となっており、今、まがりなりにも会社が拡大していけるのもこの考え方があればこそだと思います。
    11月の末ごろに宅建免許が下りて12月から営業を開始しました。まあ12月はチラシをまいて地域の人たちにナサホームという会社が出来たという事を少しでも認知してもらえればいいか位に思っていましたが、結果として売買1件 賃貸1件の契約ができました。ありがたい話で本当に今でも感謝しています。余談ですがその2件のお客さんの1組は若いご夫婦でもう1組は新婚さんでしたが二組とも1年位後に離婚されました。詳しくは書きませんが二組とも最後は奥さんが強かった。

ナサホームの20年(5)

10. 日住サービス

平成5年4月1日、心新たに日住サービスに出社しました。そうすると、いきなりこの人について説明を受けるようにと指示をされました。この人とは建設部の部長でした。すなわち建設部に配属されたわけです。独立しやすそうだから不動産の会社に入ったのに建設部に入るくらいなら鴻池組でよかった訳で出端をくじかれた感じです。
またこの建設部長の話がくだらない。朝は先ずモーニングに行こう。昼は今のイーマのあたりが当時バラックの密集地だったのですがその中に阪神百貨店の女の子がいっぱい来る通称阪神食堂と呼ばれている中華料理屋があるから毎日行くだとか3時のコーヒータイムはどこそこの喫茶店へ行けばポイントカードがあって10回行けばタダになるとか・・・・・。
とにかくくだらない話と自分の過去の自慢話をモーニング、阪神食堂、ポイントカードの喫茶店と付き合わされながら聞かされました。その夜帰宅してから考えました。不動産営業ができずこの上司の下で仕事をするなら辞めようと決心し4月2日に出社してすぐ建設部長にその話をしました。彼はあわてて社長のところへ行き、しばらくすると社長へ呼ばれ社長と専務から不動産の営業部への配属を言い渡されました。その時社長が「給料は多いほうがいいだろうから・・・・」とおっしゃりかけたのを遮って「実績のないうちはいくらでもいいです。実績あげたら沢山ください。」と言いました。社長と専務は笑いながら「よし」と言ってくれましたが、私が馬鹿でした。いくら実績を上げてもほとんど給料が上がることはありませんでした。
不動産営業マンになってとにかくガムシャラでした。数字で他と圧倒的な差をつけようと必死でした。人より多少業績が良いだけでは大した成功は期待できない。夢を実現するためには他を圧倒するくらいダントツでなければならないと考えていたのでした。また仕事も面白くて仕方がなかった。一般客への売買仲介なのですが、自分の話の組立て方一つで売主さんでも買主さんでも自分の思う方向に気持ちを持っていくことができる。思い通りにハマった時にはこれぞ仕事の醍醐味と思えました。とにかく必死で頑張りましたが、頑張りすぎて車を運転中、意識が朦朧としかけたことがありました。「過労死ってこんな感じなんかな」と思ったのを覚えています。
3か月目からはトップクラスの売上をあげ1年ほどで新大阪店の店長になりました。残念ながら私の所属した本店営業部も新大阪店も数字の上がる店ではなかったのですが、それでも新大阪店では連続店舗達成を続けました。
ただ毎月、恐怖でした。いくら売上をあげても月が替わればゼロになり、今月こそボウズになるかもしれない。ずっと成績が良かっただけに月初の2週間ほど売上があがらないだけで本社からも他店からも何かあったのかと電話がかかってくる。すごいプレッシャーですが同時にだんだん仕事にもマンネリ感を感じ始めていました。結果として退職までずっと成績は良かったです。だんだん手を抜いても成績が上がるようになってきた。手の抜きどころがわかってだんだん要領がよくなってきたのだと思います。

11.  退職へ

充実した日住サービスでの勤務でしたが退職の時が来ました。もともと独立志向のため辞める前提でしたが、直接の辞めるきっかけは少しくだらないことでした。
約3年勤めた12月、すごく売上を上げました。12月の売上成績で1月の給料に歩合がつくので1月の給料は80万円以上あるはずでした。それがなんとふたを開けると22万円です。すぐに総務部長へ電話したところ「当社は今年から部店長は年俸制になりました。このため歩合はつきません」あまりにも理不尽な話です。何の説明もないまま前月分の歩合をチャラにされたのです。それも60万位が消えたのです。総務部長曰く「先に説明しなかったのは悪かったが追って説明会を開く」とのことでした。後日のその説明会でも年俸制になった経緯はよくわかりませんし自分の年俸がいくらになるのかも分かりません。ただ去年年収は確保しますとだけ繰り返していました。
去年年収を確保してくれるなら賞与は半期で100万以上あるはずです。それで夏のボーナスを楽しみにしていましたが50万くらいしかありませんでした。なぜか腹も立ちませんでしたし笑えて来ました。独立に踏み切る良いきっかけになったと思い嬉しかったことを覚えています。平成8年7月のことでした。

       続く

ナサホームの20年(4)

7.就職

昭和59年3月大学を卒業し、ゼネコンの鴻池組に入社しました。大阪が地場のゼネコンで当時売上で4~5000億、社員数も4000人位はいたと思います。ここにはもちろん建築部門もあるのですが、私は土木部門の係員として入社し、新人研修の後、宅地造成現場に配属となりました。
大型重機が走り回る工事現場、森を伐採し山を削り谷を埋め住宅地を作る仕事です。タイヤの直径が2m以上あるモータースクレーパーという重機や、運転席に上るのに梯子で上るようなブルドーザーが山を削る様は迫力満点でした。ただ、自分は子供のころから起業する目標があります。現場配属からしばらくして、ここにいては自分の夢、目標は実現できないと確信をしました。それで初めは1年か2年で辞めよう位に考えていたのですが、上司先輩に恵まれ、お世話になった上司に迷惑をかけたくなかったので現場がかわったタイミングで離職しようと考えました。ただ幸か不幸か、現場が終わっても次の現場に連れていかれてしまい、結局7年半30歳まで勤務しました。
この時も次の現場へ連れていかれかけたのでお世話になった上司に無理にお願いをして退職させてもらいました。退職の話を進める過程で色々な上司先輩、協力業者の方から引き留めていただいたり、お前は現場監督が天職だとのお言葉を頂いたりしましたがやはり子供のころからの目標のために我儘を通させていただきました。
平成3年8月 30歳での退職でした。

8.転職

平成3年8月、時はバブル経済真っ只中、と山の中の現場監督は思っていたのですが、実際にはその時点でバブルははじけていました。平成2年に株価も急落していたのでおかしいなと思っている人もいましたがまだバブルが続いていると思っている人も多かった時期でした。後から振り返ってあの頃はもうはじけていたという認識でしょう。
そんな事もわからぬまま転職活動は不動産業者に絞っていました。理由は起業がしやすそうな事。宅建の資格を取っていたこと。それとバブルがはじけていたのを知らなかったことです。
就職情報誌を頼りに3社面接に行きました。1社目は谷町の小さなビルの上層階にある小さな不動産会社でした。仕立ての良いスーツを着た体格のいい30代くらいの人2人に面接していただき、面接の最後に「内定出せますけど?」と言ってもらえましたが、正直面接の練習と言った気持ちで行っていたのではっきり返事しないまま帰ってきました。ただ、個人面接の経験が全くなかったのですごく緊張しました。(新卒時の鴻池組では広島支店面接も本社面接も集団面接でした)ただそれ以降の面接は全く緊張した記憶がないので練習にはなったのでしょう。2社目に行ったのが中央区の堺筋沿いに自社ビルを持つ開発系の不動産会社でした。ビルの1階のエントランスから見えるガラス張りのところに総務部がありそこの結構年配の総務部長が面接してくれました。
後日、その方から食事にお誘い頂きました。その時にお話いただいた内容は概ね次のようなことです。

・あなたのような学歴職歴のしっかりした人が転職するのは前職で     何か不正やミスをしたのか?
・社長はあなたのことを是非採用しろと言っているがもったいない
と思う。
・他の会社もよく見て進路は決めなさい。

結局、他社に入ることになりその会社にはその報告とお礼にお伺いしました。報告に来たことをすごく喜んでくれて激励されました。
後日、不動産業界に入ってわかりましたがその会社は反社会的勢力と関係の深い会社だったようで、その総務部長は暗に自社へ入社しないように勧めてくれていたのでした。私と息子さんの歳も近かったようで息子のように思ってくれていたのかもしれません。
そして3社目に面接に行った業務用地の仲介を専門とする会社に入社しましたが、ここはある意味反社会的勢力よりすさまじい会社でした。社長は朝から晩まで社員を罵倒し続けている。社員を辞めさせるのは社長と社長の弟の部長が連携して5分でクビ。ゼネコンから転職して大手と零細企業はこんなに違うものかと思いました。とにかく営業マンが事務所にいると腹が立つようでした。朝に訪問先へのアポイントの電話でもたついていると社長が出社してきて餌食になるのです。とにかく社長が来るまでに会社を出てアポイントは公衆電話からとる。夜は一番遅くに帰ってくる。ホワイトボードには訪問先をいっぱい書いておく。それだけでこの社長にかなり気に入ってもらっていました。単純なものです。しかし皆この単純なことができないようで普通に餌食になっていました。またよく朝の通勤中に腹痛が起こって今から帰りますと電話してくる営業マンがいました。いい大人が腹痛で会社を休むなんて最低だと思っていました。おそらくその日の仕事の関係で社長の餌食になるのを予想してズル休みをしているのだと思います。しかしある日の朝、私も仕事の関係でどんなに要領よく立ち回っても社長の餌食になりそうな日がありました。「あー、体調が悪いと言って休みたいな」そう思ってハッとしました。そこでズル休みをしたら他の連中と同じになってしまいます。
そこで考えたのがなんと、ズル休みをしなければならないくらいなら会社を辞めようということでした。もちろんそれには伏線もあり、もう何か月も会社への入金がゼロで給料の支払いも遅れがち。ややこしいところから借り入れをしているらしい。とにかく社長の頭が固く新しい業務改善をしようとせずに過去の自身の成功体験を自慢げに話しながら社員を罵倒し続ける。その状況がだいぶ前から分かっていてこの会社に未来がないことはわかっていました。ただ自分がそれまでに貰った給料分くらいはお返ししてから辞めようと思っていました。しかしこの日、気持ちが折れました。会社へ行って社長に退職を告げると涙しながら怒鳴られました。改めて本当に自分は可愛がられていたのだなと思いました。

9. 再度転職活動

突然辞めて次の日から無職となりました。当時八戸ノ里の戸建て住宅に住んでいましたので出勤しないと近所の手前微妙でした。そこで毎朝スーツを着て車で家を出、大阪市中央区の公園沿いの木陰に車を停めてそこで一日過ごしました。するとその公園の周りには朝から夕方までいろいろな会社の営業車がずっと停まっています。中には営業マンらしき人がずっと寝ています。「こいつらみんな負け犬や」などと思いながらも私も車を並べて車の中でBingやDODAなどの転職雑誌を見て履歴書を書いていたのを覚えています。
何社か履歴書を出したのですが先ず日住サービスと住友不動産販売の面接日が決まりました。そして3月31日に日住サービスへ面接に行きました。社長以下役員5人くらいの面接でしたが、経歴についてその時何を考えどう行動したか細かく質問されたのを覚えています。その日の夜、自宅に電話があり内定である旨と明日がちょうど4月1日だから明日から出社できるかとのことでした。住友はじめ他社の面接もあったのですが折角だからまあいいかと入社の承諾をして翌日より出社しました。約10日間の失業者生活でした。

続く

ナサホームの20年(3)

5.   大学時代

もともと建築科志望で受験をしていて広島大学工学部第4類へ入学しましたが、ここは建築、土木、船舶と3つの学科を4類として入学させ、入学後1年間の成績で学科を振り分けるというものでした。私は残念ながら土木学科の方へ回されることとなり、少し遠回りな人生の始まりであったと思います。中には建築会社の社長の息子もいて辞めることも考えたようでしたが結局一人も辞めた人は出ませんでした。
大学へ入学し当初、大学の学務課の斡旋で広島市南区宇品東というところの風呂はなくトイレも共同の家賃1万円のアパートに入居しました。ただあまりにもぼろぼろのアパートだったので半年くらいで中区吉島東へ引っ越しました。ここでの約1年半は比較的快適に過ごせたと思います。奨学金も貰っていましたしよくバイトもしましたが年中お金がない貧乏学生でした。バイト代が少し入ると油断してパチンコで使ってしまうような無計画なところもありました。「今日のご飯代がない」こんなピンチの時に当時横川駅の近くにあった学生相談所へ行きその日の夜のバイトを見つけては3千円くらいをもらって食いつないだりしていました。多くが百貨店の特設会場を設営などのバイトでした。また、だんだんズルさも出てきて時計やオーディオを質屋に預けたりもしていました。ある日、昼近くまで寝ていると学校の友人が訪ねてきました。何故か親切に「コーヒー入れたろか」とか世話を焼いてくれます。私はそのとき独り言で「あー金ないわー」と伸びをしていうと彼は「えっ、おれ金借りにきてん」と困った顔で言います。「しょうがないな」ということで彼を連れて質屋へ行きましたが彼の時計では質屋が引き取ってくれず仕方なしに私の時計を質草にして二人でささやかな食事をしたことを覚えています。彼は今では三井住友建設広島支店の営業部長です。大学入学後2年間は広島市内の中心部に住み、それなりの学生生活でしたが3年への進級時に大学統合移転の第一陣として工学部が東広島市西条町に移転することになっていました。今でこそ全学部が移転を済ませ緑豊かで整備された素晴らしい大学になっていますが、当時は本当に何もない山の中に工学部だけがぽつんと出来たという感じでした。当然アパート・マンションの類もまだなく、皆学生寮に申し込みますが私は抽選で漏れました。他の落選した学生はポツリポツリと出来てきた新築マンションへ住むこととなります。ただ、当時の我々の感覚ではかなり高額で私には住めませんでした。
そこで結果的に大学から5キロ以上離れた農家の納屋の2階に間借りすることになりました。家賃はそこの息子の家庭教師。風呂も母屋へ借りにいかなければならず、結構気を使う不自由な暮らしでした。
ただ、春には田植えを手伝い、梅雨時期には網戸にたくさんの蛍が集まってきます。田に水を満たせば一晩中、カエルの大合唱、夏ごろには農薬の散布をするのでバイクで通学していると風呂で頭を洗うときに独特の匂いがしました。秋には稲刈りも体験させてもらいましたし、冬には結構な積雪がありました。およそ関西で学生生活をしていたら体験できないことを体験できたと思います。

6.  大学の研究室

4年になると研究室に配属され卒論に向けた実験をする日々になりました。
研究室には交通、水理、河海、土質、構造、材料、衛生などがありましたが私は材料研究室に希望して入りました。ここに決めた理由が安易なのですが先輩からの勧誘で「他の研究室行ったらFORTRANやBASIC解らないといけないよ。材料研究室は四則計算と体力だけで大丈夫」この一言で集まった同級生が6人いました。私以外は全員広島県人。実はそれまで中四国出身者とは何故かそりが合わないと思っていました。県民性が違う云々といってやはり一匹狼的に過ごしていましたが、この研究室での1年間で本当に彼らとも打解け、今も親交が続いています。
材料研究室では朝は10時から実験が始まり実験が終わるのが9時くらいでした。毎日つなぎの作業服に着替え、コンクリートを練って供試体や梁を作り、載荷試験を行って壊す。この繰り返しです。学部生6人と院生2人の8人は昼も夜も食事を共にした1年でした。
ただ、結論だけを言いますと院生の方が修士論文提出間際の2月19日に自殺をするというショッキングな事件が起こりました。私は初めて人の生き死にかかわり、この後の自分自身の人生観に少なからず影響を受けました。その先輩も死ぬ前にいろいろな前兆がありました。それを誰も死の前兆としては気が付かなかったのですが、自分のこの後の人生で身近にもしそういう前兆を出している人がいれば必ず気づいて救ってあげなければならないと心に誓いました。

 

続く

 

ナサホームの20年(2)

3.  高校時代

高校に入ってまた山本君と同じラグビー部に入りましたがラグビー部では私の方が少しだけ優秀であったかもしれません。ただもっとすごいのがいました。谷村君。彼は勉強はあんまりできませんでしたが親分肌で周りの出来事に動じることなく、また人を引き付ける不思議な魅力がありました。ある時体育教官室に用事があっていったとき窓の外で谷村君がラグビーのパス練習をしていました。それを見ながら年配の先生が教官室にいる他の先生に向かって「あいつ大物になりそうやな」とおっしゃいました。やはり人を引き付ける魅力のある奴は年配の先生が見てもそう思うんだなと思いました。自分はどう見てもそんな大物タイプではない。でもそうすればそんな人間に近づけるのかをよく考えていました。また、当時、かなりロジカルに物事や自分のやるべき行動を考えていたように思います。理屈っぽく物事を考えることが思春期の特徴なのかもしれません。恋愛問題までも理屈で考え理屈で行動しようとしていましたが結局、欲望や本能は理屈で割り切れるものではないと結論付けました。
また、高校時代はどちらかというと一匹狼的なところがあり、自由な校風の高校でしたが何故か学校になじめませんでした。自由に浮かれて楽しそうな同級生を見ていて馬鹿じゃないかと思ったことさえあります。何か一人で勝手に尖がっていたような高校生でした。ラグビー部も途中でやめました。理由はダラダラしたかったというのが本当のところでした。授業が終わってダラダラ、ブラブラしたかった。もちろんそれを理由に先輩に辞めたいとは決して言えませんでしたが・・・。
勉強の方はというと高校入学以来ほとんど勉強をしてなかったと思います。高1時代の担任で化学の植村先生とトイレで並んで用を足していると、「君は入学時の成績は良かったんだ。期待したけど今の君はなんだ!ここまでサボっていたらもうむつかしいぞ。再起不能になるぞ」ときつい言葉をいただいたこともありました。そんな少し変わった高校生も高校2年の3学期くらいになると受験を意識して勉強をし始めました。急に勉強を始めたものの成績は一向に上がらず高3の最後の実力テストではついに540人中400番くらいのひどい成績だったことを覚えています。また私たちの世代は共通一次試験(今のセンター試験の前身)の初年度の世代でした。受験地図が大きく変わり各大学の難易度もよくわからなかったのを覚えています。現役時代広島大学工学部を受けましたがあっさり不合格となり浪人生活に入りました。

4.   予備校時代

当時の私の通っていた高校の約半数は現役で大学に入れず浪人していました。ですから浪人といってもそれほどネガティブな印象はなく、右へ倣えの感覚でした。そう思っていたのですが初めて6-3-3制の枠組みから外れたことで親へ無用の経済的負担をかけたことが心苦しく思ったのを覚えています。この心苦しさが頑張る気持ちの大きなバネになったようにも思います。この1年間は本当によく勉強しましたが、自分の限界を知ることもでき、将来に役立つ経験だったと思っています。敢えて浪人する必要はないかもしれないですが現役合格者には経験できない尊い経験ができたと思います。
当時、大阪で予備校といえばYMCA予備校が一番レベルが高いといわれていました。その中でも土佐堀校が1番でした。予備校にも受験がありYMCA予備校として受験し成績と希望順に校舎を決められていきます。私は土佐堀校に入れる成績ではありませんでしたが何故か合格しました。高校の同級生の多くは阿倍野校や堺校に振り分けられていました。巷では「YMCA土佐堀校で普通に頑張れば阪大合格間違いなし」などと言われていました。
私も単純にその気になり、また親に経済的負担をかけたことへの特別な思いもあり頑張りました。朝起きて寝るまでのうち風呂、食事、通学時間以外はほとんど勉強にあてたのを覚えています。しかし結果として飛躍的に成績が向上することはありませんでした。では何が貴重な経験となったかですが、この期間、私より多くの時間を勉強に割いた学生はいないはずで、にもかかわらず、一部の学生は成績がドンドン上がっていく。即ち限界近くまで頑張ったからこその他人の能力の優秀さと自分の能力の限界を知ることができたことです。よく当時、人を評して「○○君はやればできる人だけどまだあまり勉強してないから・・・。」などと聞くことがありました。私の場合は「とことんやったけど能力の限界もあって・・・。」とにかくとことん頑張って能力の限界を感じれたことで先ず謙虚になれました。そして努力を怠らなくなりました。その後の人生でも「人の十倍努力して人の2倍結果を出そう」と心の中で念じることが多かったです。もし予備校時代の経験がなければ「人の1.2倍努力して人の2倍の結果を出そう」と考えていたかもしれません。そして予備校1年間を皆勤で通し逆境の中で共に頑張った友人とは固い絆で結ばれました。今も付き合いの続いている人が多くいます。当時彼らと話していたことを今も思い出します。「志望校はそれぞれ京大、阪大、神戸大と別れているがすべて阪急梅田駅のホームから電車に乗ることになる。みんな大学が別れても阪急梅田駅で待ち合わせして集まろうぜ!!」
そして彼らの半分くらいは第一志望の京都大、大阪大、神戸大へ合格し、共通一次で失敗し2次の配点の高い北大に挑戦した者もいました。また一部はそれらに不合格して関関同立へ流れ、私は広島大という結果になりました。

 

続く

 

ナサホームの20年(1)

私はブログを書くのが不精なもので
最近では1年に1~3件の投稿しかない現状です。
しかし多少、情報発信することも必要かなと思い
ナサホームの20年史をアップすることにしました。
これは10年位前から会社の歴史を書き綴っていたもので
社員には数年前に途中まで開示していましたが
外部に出すのは初めてです。
もともとは創業からの10年を書いたのですが
その後日経新聞の「私の履歴書」に倣って幼少期の出来事を書き加えました。

ちょっと恥ずかしいですが不定期に一定量毎にアップしていきますので
退屈しのぎにでも読んでみてください。
誤字、当て字、拙い文章はご勘弁ください。
(なおオリジナルはすべて実名で書いていますが
今回は仮称として多くは記しています。)

 

  ナサホームの20年

平成18年1月

加筆・訂正  平成20年10月

加筆・訂正  平成22年7月

加筆・訂正  平成25年10月

加筆・訂正  平成29年6月

加筆・訂正  平成30年8月

 

第1部

はじめに

ナサホームが出来て20年を超えました。そして多くの人が入社してくるようになって社員数も200名を超えるようになりました。
その時々に入社してくる人たちの目にはこの会社はどのように映っているのでしょうか。もちろん人それぞれの感性で受け止めてもらっていいのですが、やはり過去に何があって現在があるのか。何を考えてこういう形になっているのかは知ってもらっていた方がいいと思います。即ち、過去の多くの失敗があって現在があることを知ってもらい、現在の多くの失敗が将来の成功につながる事を肌で感じてもらいたい。そのために小さな会社の短い歴史を書き綴ってみることにしました。日経新聞連載の「私の履歴書」に倣いまず私の生い立ちから書いてみます。

  1. 生立ち
    昭和36年1月31日、鉄工所を営む父初男と母悦子との間に男ばかり3人兄弟の3男として生まれました。兄は11歳と8歳年上でだいぶ遅れて生まれてきた子供でした。父親は大正生まれで今の都島工業高校を出て、機械の設計技師として就職したようです。その後招集され九七式重爆撃機なるものの搭乗員となり主に東南アジアを爆撃していたようです。その際、英国の戦闘機スピットファイアーの編隊と遭遇し空中戦を演じ、父は敵機一機を撃墜するも肩に貫通銃創を負い野戦病院を経てそのまま終戦を待たずに除隊となったようです。その後機械のブローカーを経て江川鉄工所を設立、現在のパナソニックと共同で積層乾電池の製造装置の特許を取得、後にパナソニックと袂を分かち日立マクセルと組んで海外も含めその製造装置を製造販売していたようです。その頃、恐らく父にとっての絶頂期であったと思いますが父が42歳の時に私が誕生しました。ですから上に書いたことはすべて物心をついてから父親から聞いた話です。特に戦争の話は勇ましく英雄気取りで話していたような気がします。
    私の誕生前後数年間は積層乾電池の仕事が順調で従業員も100名くらいいたと聞いています。時々会社の人が家に来て食事をしていたのを覚えています。後に母親に聞いたところによると当時発表されていた生野区の長者番付にも載っていたそうです。ただそうした成金にありがちな傲慢さがあり母を苦しめていたようでもあります。
    私が子供の頃のことを覚えているのは幼稚園に入ってからくらいですがその当時にいきなり強烈な記憶が植付けられました。小学校入学前、真新しい学習机とランドセルがあったので恐らく2月か3月くらいでしょうか、家に裁判所の執行官が2名でやってきました。『差押 本物件は差押物件につき無断で処分することを禁ず』と書かれた白い紙を家具や電化製品にベタベタと貼っていきました。なぜその貼り紙の内容を覚えているかといいますとかなりの期間その貼り紙が貼ったままになっていたのでその紙を毎日読みながら育ったようなものだからです。当時、父が居留守を使い母が電話でウソを言う。父が電話で誰かを怒鳴りつけていたり夫婦げんかも日常茶飯事でした。かの有名なちゃぶ台返しも我家では見慣れた光景でした。
  2. 少年期
    小学校の低学年くらいでしょうか、父によく近所の大衆居酒屋に連れていかれました。会社の倒産後、父は一人で鉄工所を営み機械部品の加工などをやっていました。それでも取引先などからは当然ですが社長と呼ばれていました。またどこの居酒屋へ行っても料理を出される際に父は「シャチョウ」とか「タイショウ」と呼ばれておりました。私はずっとどこも父親の知り合いだと思っていましたが後で考えるとそれなりの風体をした人すべてに「シャチョウ」「タイショウ」と呼んでいたのです。決して「社長」「大将」ではなくカタカナのニュアンスです。それはもしかしたら当時の大阪の庶民文化であったかもしれません。
    学校ではそれほど勉強ができるわけでもなく比較的目立たない子供であったと思います。小学校1年から5年くらいまでは通知簿もほとんど5段階の3でした。上の兄はオール5ばかりでしたし次男もそれに準じるくらいの成績でしたから自分だけ出来が悪いと諦めていました。また家計的にも恵まれておらず欲しいものがあっても「うち貧乏やから辛抱しい」と母に数百回となく言われて育ちました。やがて子供心に「貧乏いややなあ、おれ絶対金持ちになるねん」と思うようになっていました。恐らく8~9歳の頃。これが何となく、ぼんやりと起業を夢見るきっかけになったことは確かです。でもこれといった自信も取柄もなく相変わらず目立たない小学生でした。スポーツも特別得意なわけでもありませんでした。
    小学校6年の時に一つの転機が訪れました。当時の担任の山内先生(仮称)があるとき算数の成績順に席替えをさせたのです。クラス40人、1番から40番まで成績順です。今ならモンスターペアレントからの突き上げで大変なことになっていたことでしょう。しかし私はなんと2番だったのです。自分でも何の自信もやる気もなかった時ですが、これで私の競争心に火が付きました。勉強が楽しくなり学校が楽しくなり次の席替えでは1番になりました。山内先生が私のことを意図してなされたことかどうかはわかりませんが今度同窓会があったら少しお話を聞いてみようと思います。
    中学校に入ってもすべてに前向きに取り組めるようになりました。また中学校では中間テスト、期末テストというのがあり都度席次が出るというのが励みになりました。中学入学後、初めの中間試験で父とちょっとした賭けをしました。「240人中50番以内になったらなんか買ったる」といいます。私は勉強部屋の畳が擦り切れてボロボロでしたので「畳替えて」といいそれが賞品のようになりました。父は試験前にテレビを見ていると笑いながら「畳がほしかったら勉強せい」といったのを覚えています。試験が終わって結果は13番、当然畳を替えてもらえると思いきや「金ない」の一言。小学校の頃からの母親の「うち貧乏やから辛抱しい」と同じです。何度も抗議しましたが「金ないねんや」の一点張り。毎晩、晩酌しながら言うもんですから子供心に卑怯な親父だと思い失望しました。自分が親なら晩酌をやめてでも息子との約束は守るのにと思いました。
    一方この頃にはかなりはっきりと将来起業することを意識していました。小学校からの同級生で山本君(仮称)というのがいました。私より成績が少しだけできて同じハンドボール部に入っていましたがやはり私より少しだけ上手でした。また休み時間を見ているといつも彼の周りに数人が群がってきています。「勉強もできて人望もある。こんな奴が将来、起業しても大物になるんやろな」とある種、嫉妬の目で見ていました。彼とは小中高と12年間同じでしたが自分よりあらゆることで少しだけ上を行くやつがいることは本当に目の上のタンコブみたいな存在でした。

中央の一番幼いのが私です。

続く

認知症の母親と

フェイスブックに約1年ぶりに投稿しました。                  内容は認知症の母親との動画を投稿したものでしたがいろいろな意味で反響が大きかったのでこのブログにも投稿してみます。                  このブログへの投稿も約一年ぶりになりますが・・・

 今年の4月に母親が老人ホームに入りました。
まあ、いつ行っても確実に居るし、前に大きな駐車場もあるので今までよりもむしろ行きやすくなってちょくちょく会いに行っています。
ただ、認知症が進んでいて私の事も、自分の亡くなった兄と勘違いしています。そんなことでわざわざ会いに行ってもちょっと張り合いがない所もあります。

まあ、認知症もここまで進めば死への恐怖もなく、逆に幸せなのかもしれませんが、すこぶる健康のようで何よりです。

注:動画を見た人からよく誤解されるのがうちの娘がもうすぐ出産するように思われるようですがその予定はありません。

 

 

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阪神百貨店建替え

以前にも書きましたが私の席から阪神百貨店の建替え工事がよく見えます。    毎日楽しみにみているというのが正直なところです。

もういよいよ低層部分は最上階までたどり着いたようです。

ゼネコンの工事は昔もそうでしたが土曜祝日は決して休むことなく暑い中頑張っておられます。これからも毎日見学することを楽しみにしています。

2017.7.18現在

完成予想図

 

千里店移転

ギャラリー

このギャラリーには5枚の写真が含まれています。

約10年営業してきた千里セルシー店もビルの閉鎖に伴い移転することになりました。 思い起こせばこの千里中央に店舗を構えてから会社の成長が加速し始めたターニングポイントとも言うべきお店でした。いろいろなお客様との出会いの場で … 続きを読む

初めてのハワイ

 

よく海外旅行へ行ってるせいか、皆さんに意外がられるのがこれまでハワイに行ったことがないことでした。

先週、初めてハワイ旅行へ行ってきました。それも弊社役員の柳の結婚式へ参列するためです。

なんと彼は44歳で初婚。以前ニュースで40歳を過ぎてから初婚で結婚する確率は2%とか言っていましたので私ももうないものだと思っていましたが、いいご縁があったようです。

そこで弊社スタッフ7人とその家族3人、合計10人が参加しました。

柳の結婚式ももちろんよかったのですが、ハワイが芸能人やらが毎年正月に行ったり、一般人でも繰り返し訪問するリピーターが多いのがなんとなくわかる気がしました。

これまであまりリゾート系の旅行は行ったことがありませんでしたが、これからは心と身体を癒す旅行もいいですね。

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